![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10947564/rectangle_large_type_2_81780e3afed4e945834a309570492c05.jpeg?width=1200)
自己紹介をするとき、あなたが語る自分とはどこの誰か?(新人に向けた勝手な厨二考)
新しい季節の始まり。いろんな人が出会う。中にはうまくスタートできない人もいると思う。
自己紹介なんて苦手で、いつも何を言えばいいのか迷う。言うほどのことがないという人もいる。そこで語られる自分とはどこの誰か。いつかのそんな厨二くさい思索を思い出したので、あえて書き出そうと思う。
学生は就職活動で自己分析をしたりするけど、長い人生の変化のなかで自分の範囲はその時々で変わる。自分はどこにいるのか。自分が自分と思っている意識は、どこからどこまでが自分の意識なのか。
ケンウィルバーのトランスパーソナル心理学では、自分が何なのか、西洋哲学と東洋哲学のそれぞれから統合的に、存在と意識のありかを問うている。自分は哲学の素人だが、この捉え方はおもしろい。
(引用元)意識のスペクトル、という図があった。少々宗教っぽい感じもしてくるが、意識とそれ以外を分かつ境界を図示している。
人間社会に生きていると、人間関係は本音と建前。意識は頭の中で、本音と建前のあいだに境界を持って、社会とつながっている。時にその線引きが難しく、心身の不一致に苦しんだり、病的にペルソナと乖離した人がいるかもしれない。親しい友人や家族と話すとき、意識は相手の懐に入り込んでいるかもしれない。
もっと物理的なものだと、なれたスマホを触る指先の、画面上のオブジェクトはもはや自分なのかもしれない。温泉やマッサージ師に身を委ねるとき、意識は皮膚の境界近くまで及んでいるかもしれない。こちらの書籍では前述のようなUIのもたらす感覚を、「自己帰属感」という言葉で言い表していた。
深い睡眠に入っているとき、深い瞑想に耽っているとき、無意識の体温調整と呼吸で、意識は自分の意識の外側とつながっているかもしれない。Googleもやっているマインドフルネスでも似たような話があった。
人が死んだとき、ただ身体は物質として存在し、自然や宇宙とつながっているかもしれない。知らんけど。
はじめの書籍終盤には、孔子の有名な言葉に「億劫来、本来無一物」という言葉が記されている。もともと私たちは何でもない、という。宇宙までスケールアップしといてそれかい、とマッハでツッコミたくなった次第だ。逆説的に些細な意識を持った時点で、何もない人はいない。境界面で自分以外とつながっている。
話が飛躍してしまったが、何かしら思っている自分を紹介したらいい。まわりまわって人はそれぞれ、一人として同じではないし、それでいてなんでもないという。自分に固執せず、思いついた自分を言えばよい。合ってる、間違っている。ウケる、ウケない、という話でもない。結果あんまり役に立つ話ではないのかもしれないけれど、この季節が何かしら良いスタートになるといいね。と自分の失敗を振り返り、思うオッサンの春だ。
いいなと思ったら応援しよう!
![YasuhiroMuraji](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/94182201/profile_f57fc1f401e358949c45fedff462110d.png?width=600&crop=1:1,smart)