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今は完璧より、生きる欲がほしい

右と左の人差し指と親指を、互い違いに囲って、世界を切り取ってみる。

職業柄、フレーム(枠)の中で構成を定め、かたちをつくっている。フレームがなければ基準がない。良し悪しの判断がつかない。だから、どこかでフレームを見定める。

判断軸を持つことで見通しが立つ。考えやすくなる。不安は軽減する。考えて、整え続けたら、ゆくゆく、完璧に剛性のあるものが作れる。

このフレームが、はじめから見えていたら苦労しない。見えないからプロの視点があるし、見えないからリアリティを感じ、楽しいとも思える。プロの視点で、フレームの前にある何かを捉えようとする。

たとえばカメラマンなら。あるフレームを目指して、イメージセンサーが写し取る前に、収まることを知らない光がある。システムインテグレータやコンサルタントなら。あるフレームを使って、要求を整理する前に、有り余るほど要望や与件、制約事項がある。

世の中にはフレームが溢れている。探せばすぐに出てくる。当てはめることは簡単で、それらしい答えも得られる。

思考→フレーム

とすることもあれば、フレームをもとに考えることもある。

フレーム→思考

先人の優れたフレームから強い思考が得られる。判断軸が見つかる。ある判断軸のもと、フレームを充足させようとする。そのフレームの中で完璧な剛性が得られる。

フレームに偏ってしまうと、これがとても脆い。ある判断軸を持った思考でしか、その強さを立証できなくなる。拠りどころがなくて、完璧に築き上げたフレームを、自分に同化させてしまう。

そのフレームと自分とは、切り離して考えられる。思考の持ち方(思考態度)ひとつで、人生は変わってしまうと思う。

人の思考態度には、完璧志向(Fixed mindset)と成長志向(Growth mindset)がある。前者は目標を見据え、それまでのステップを踏み、計画的に成果を掴もうとする。後者は今を受け容れ、批判しながら、不特定の何かを得ようとし続ける。AtlassianのエンジニアリーダーやGoogleのマインドフルネスが教えてくれた。

どちらが良いという話でもないが、情報環境からして、後者になりにくくなっているのでは。

機械学習が自分たちの意識しないところに入って、ニュースアプリも、マッチングも、常に最適解を導いてくれる。期待の前に答えがある。それも最善の。私のフレームで充足した、予測可能な世界にいる。

いつかだったか、誰かに応えよう、報おうと、完璧志向に努めたことがある。不出来ながら役割を全うしようとして、それが完璧にできない。不出来なことは、役割と責任を考えて手をつけなくなる。結果的に、自責から何もできなくなってしまった。

チャットに書いてもいい言葉ってなんだろう。それを見つけたくて、書いては消して1時間が終わり、しばし考えたまま1時間が経って、また書いては消して、そして書く。これを始業から終電までやっている。

「ありがとうございました」のメール1通で悩む。これは感謝していいものなのか。メーリングリストで受け取る誰からも、受容可能なメッセージなんだろうか。どの程度、どんな言葉を使えばいいのか。3,200文字も書く内容じゃないな、と小さくデリートキーを叩いて、80文字の言葉を送る。

冷や汗をかいて目覚める深夜。猫背に重しがのしかかる通勤路。朝から晩まで役割と責任が締め付ける。最低限の役割を完璧に果たせない。何か決めることは難しい。悩んでることが惨めで情けない。給与をもらう資格がない。

完璧を志向して、自分のフレームを小さく、小さく、してしまったんだと思う。存在価値すら危うかった。もう、そんな状態には戻りたくない。

どれだけ自分が不出来だろうと、誰かの完璧にはならなくていい。私たちの思考は一人ひとりのもので、よくできたフレーム(たとえば「○○○に1番大事なこと」)は、あまりあてにならない。

フレームは使うもの。フレームを観る人にとって共通の理解を得るためのもの。自分とは違うもの。使おうとする前に、今を受け容れて、本当にそのフレームが必要なのか、どういう理由で必要なのか。今は、何が足りないのか考える。

でもきっと、完璧志向では見つからない。完璧志向は足りない以上に見えていない。それはフレームの外側にあるからだ。

フレームの外側、判断軸にない理不尽や非合理を無くしたって、何にもならない。誰かの目標を掲げる前に、今のあなたと向き合って、落ち着いて、そこから何を始めるか。

行き詰まったら、こびりついたフレームを捨ててみよう。グロースマインドセットを胸に。そこには甘くない世界があって、甘くないゆえに、甘さも知って、はじめて生きた心地がしてくる。目標も、ゆうに超えていけるんだ。

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YasuhiroMuraji
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。