「そもそも」アレルギー
「そもそも」という言葉をよく聞く。
以前に比べて、よく聞くようになった、ような気がする。首相がやたらめったら言ってたのも、記憶に新しい。
これも情報環境が変わって、誰もがスマホを持ってから、言う人が増えたように感じる。いや、そんなデータはどこにもないんだけど。この「そもそも」が、僕はどうも苦手だ。
「そもそも」の苦手意識を反証する
なんて便利な言葉。我が国の首相のように「基本的なこと」という意味で、誤用してる人も多いような気がする。
しかし「そもそも」と言われて、腑に落ちないことが多い。
相手「そもそも 〜 ですよ」
自分「(ん?なにゆえ?)」
こんなことザラにある。すぐに相手の意図まで向き合えない。この苦手意識は、どこからやってくるんだろ。
ふとした疑問をまとめてる人って、いるもので、調べるとたくさん記事が出てくる。すぐ答えっぽいものが出てくる世界だから、なおのこと、自分なりに反証する必要を感じる。
言葉の意味は
そもそも「そもそも」には、2つの意味があるらしい(←使ってみた)。どれどれ。
名詞「そもそも」の意味
・(モノゴトの)はじまり、最初、起こり、発端
・副詞的にも用いる
接続詞「そもそも」の意味
・モノゴトを説き起こすとき、文の冒頭に用いる語
・いったい、だいたい、さて
引用元:https://eigobu.jp/magazine/somosomo
苦手な「そもそも」は、接続詞のほうだ、と感じた。名詞のほう、過去にあった事実なら文句ない。
苦手意識の原因になっているものは
接続詞としての「そもそも」は、というと
・モノゴトを説き起こすとき、文の冒頭に用いる語
・だいたい
うん。怒ってるの?的な、受け手の心理になりそうだ。
自分(話し手)は正しいけど、あなた(聞き手)は前提から違う。持っていた考えを根本から見直しなさい。そうやって受け取ってしまうことがありそう。いや、実体験としてある。
接続詞として文脈の途中で使うなら、それまでの文脈が長いほど「え、何を今更」「話してきた意味は?」となってしまうかも。それまで、積み重ねて考えてきたモノゴトも、前提も否定される。知ったこっちゃない。おそらく、主張的に感じる原因はこれか。
意図を読み解こう
明白なのかもしれないが、聞き手の捉えかたを省いて、意図を読み解いてみたいと思う。(接続詞としての)「そもそも」の意図ってなんだ。
・ある前提に立つ
・そのうえでモノゴトの整合性を確認する
たぶん、この2つの意図があるのかな?
まず前提。話し手にとって当たり前で、聞き手の知らない・考えにない、何かしらの前提があるわけよね。
そして、モノゴトの整合性。整合性を判断するには、同じ思考・判断が必要なのかな。自分と相手の思考・判断が同じなんて言い切れないな。
こうなってくると「聞いたほうが早い?」と思ってしまう。
人によって、蔑まれたような気分になるかもしれない。ただ、ここで知りたいのは「相手の意図」。もしかして、話者しか考えのないウソ・詭弁の可能性もある。結論が出ない段階では、きっと相手の正しいと自分の正しいがある。真実なら「そもそも」を使わなくてもいい。コナンくんには申し訳ないが、真実はいつも1つとは限らない。だから、その意図を聞いてみよう。
アダプティブな探りかた、アサーティブな伝えかた
↑「日本語でおk」という声が聞こえてきそうである。
まず、アダプティブ(適応的)に聞こう。どちらかに答えを求める前提なら、聞き手も間違い探しをされてる気分になる。違いに興味を持たずには始まらない。
アダプティブ(適応的)な聞き方。相手が言いやすいよう、反芻、相槌、視線や表情で、聴く姿勢を。そして、相手の意図を探りたい。
理解を深めるため
「それって、 〜 ということですか?」
「つまり、 〜 ですか?」
分からないことは正直に
「すみません、分かりませんでした」
「例えば、どういうことでしょう?」
理解ができたら、お互いにとっていいことだ。
それでも、こちらの考えがある場合、アサーティブ(相手を尊重して、穏やかに)に自分の考えを伝えてみよう。
アサーティブな伝え方。相手の思い過ごしやウソの他、こちらが伝えられていない前提があるかもしれない。前提に前提を問う。つまり「そもそも」に「そもそも」で返事する。そんなこと、したくないですよね。どうしよう。アサーションの例で言うと、
一般論にしない
「私は 〜 だと思います。」
(主語・述語を置いて個人の見解とする)
事実と要求を分けて明らかにする
「もし 〜 案だと素材が必要なので困ります」
でなく
(事実)「弊社(私)のほうで 〜 案を実現するには、3倍の仕入れコストがかかります。」
(要求)「今のご発注範囲での対応が難しいため、追加費用のご検討が必要になりそうです。」
たらればより、具体策と何が必要になるか。「困る」とか主観的な感覚より、理解を求めることが何か。アサーティブに具体化することで、異論をぶつけず、より相手に伝えることができるかも?しれません。
前提が違うとき、避けたい言葉づかい
こういうとき、個人的に「ちゃんと」「しっかり」というような、曖昧で強い言葉づかいは絶対に避けます。自分はこういう場合には、「ちゃんと」「しっかり」を絶対に言いません(二度、言いたい)。誰かに習ったわけでもないけど、そう思う理由がある。なぜか。
「ちゃんと」「しっかり」の前提が違うとき、聞き手にこれらの係る意味は推測できません。推測できないモノゴトに対して「ちゃんと」「しっかり」と言うのではなく、まずは前段までに書いたような、モノゴトの確かめ合いをしたいものです。そのモノゴトが理解できたうえで、「ちゃんと」「しっかり」は意味を持つんだと思う。
お互いを尊重したコミュニケーションができるよう
傾聴やアダプティブラーニングっぽい話に及んだのは、「言葉」そのものの適正より、その「意図」を確かめ合う必要を感じたからだった。「そもそも」アレルギーは、少し回復に向かうかもしれない。
「そもそも」の意味だって、今後は変わってくるかもしれない。「そもそも」が多用される背景があったわけで、また新しい言葉づかいが生まれてくると思う。
自分だって、こう書き出したように反応できないけど、お互いを大事に、相手を尊重したコミュニケーションができるよう、日々鍛錬したいな。と思っています。