個人起点で支えるチームづくり
個人主義のチームへの影響が怖い。怖いままじゃ一向に変われない。
チームは個人の集まり。誰かが持ってきた正しさも、チームの運営上は不整合や偏重につながることがある。ひとりの正しさに無理な同調をして、周囲が離れていくのは見過ごせない。かたや、わざわざ伝えてくれる、ひとりの気持ちも報われたい。
どうにか、好転的に変えたい気持ちが働く。できるだけ個人の力を(たとえそれが微力でも)個人ができるカタチでチームに活かしたい。そのほうが楽しいし、得られるものもあったからね。
だから“個人起点”で。これからのチームづくりで貢献できることは何か?書籍をかいつまんだ平易な言葉で、自分なりに反証してみたいと思う。
個人の特質を見出す
ベーススキルは人によって大きく違う。個人のスキルや、その根底にある特質を理解せずして、チームワークを任せられることもないと思う。
ある分野はできて、ある分野はできない人に、その人の価値観のまま逆の立場の人間を評価したり卑下してはいけない。ベースは理解しながら、基準からの減点法でなく、その人の特質を見出して任せたい。どんな話も、個人の根底から始まり、つながるものだと信じて、まず、相手の特質を見出してみよう。専門的なスキルやその応用は、それからいくらでもできる。
他者への誤解や疑い、思い込みを無くす
環境や人間関係によって、思ってる以上の誤解や思い込みが生まれる。ただでさえ個人主義を言われる昨今。「毎日隣にいる誰かが何を思ってるか分からない」そんな場所には誰もいたくはないはず。
不安も迷いも愚痴も、たまに笑って、たまに真剣に話せる。勝手でよそよそしい関係を超えて、人よりモノゴトにフォーカスできれば、誤解や思い込みは信頼に変わる。と、過去の仲間を思い出して反証する。そういう場づくりに、もう一度関わってみよう。
失敗の経験をつくる
なんだかんだ、OJT(仕事上)で経験したことが一番身になる。これが役割やその人のイメージだけに閉じた関わり方にしてしまうと、はじめから「閉じたべき論」が生じる。結果、失敗する経験も、成長機会も失われると思う。
できるだけ横にいて、困った時でもそうでなくとも聞ける関係が良い。また、些細なことでも、できそうなことは積極的に任せあえる関係が良い。極論、失敗が存在意義をもつくる、と思う。失敗を落胆せず認めあうことができ、失敗から成功できるようにしよう。したい。
短い期間で反復する
学生の頃は授業で習ったことを、宿題で反復して身につけてきた。大人になるとそんな機会もない。こうやって文に書き出すことも、ひとつ大きな学びになると感じる。
同様に、やったことを振り返る“期間”が大事だ、と思う。半年以上の案件ともなると、それだけで忘れてしまう。何を得たのか分からない。同世代で数ヶ月スパンの実作業を回してきた人を見ると、わりと絶望的に「差がついた」と感じざるを得ない。できれば短い期間で反復し、これを個人やチームのナレッジへと変えていこう。
何が良いか語る
実作業から離れて、しばらく専門的なデザインもコーディングもしていない。専門的な作業ができないからといって、ディレクション(検討や意思決定)できないか?狙いや成果を語れないか?というと、それは違うと思う。
自分が関わる商品やサービスが、自分の関わり方とは関係なく、世に出てどんな価値をエンドユーザーに提供しているか。これを語れる作業者って、少ないと思う。だけど、関係なくて、誰もが“やってることの何が良いか”を語っていいと思う。言葉で語らずして、伝えることはおろか自覚もできない。ぜひこれを紹介できる場を作ろう。
敵も味方もなく、確かめあう
同じチームやプロジェクトに関わる人は、同じ目的を共有した仲間。そこに敵はいないはずなのに、敵味方を区別する声が聞こえる。どんな原因があったとしても、どんな役職でも、疑いや偏見から、生身の個人に不躾な言葉をかけるのは間違っている。
個人はチームのために、チームは個人のために作用するものだと思う。確かめあう過程さえ大切にできれば、お互いに敬意をもってチームに貢献できる。迷ったり、怒りの感情が沸いたら、少し冷静になり、目的に立ち返って確かめあおう。
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以上。個人起点で書いてみたものの、どこか反面教師感が残ってしまう。人間だもの。もちろん個人的に至らない部分も、環境的に難しい部分もある。今現在できていないことばかり。
でも、個人もチームも願えば変われる。あとで後悔したって、今そう思うなら構わない。とにかく書いてみよう。話してみようよ。
また気が向いたら、次はビジョン起点でチームづくりを考えてみたいと思う。