見出し画像

イヤイヤ期とイヤイヤ言えない大人の非認知

子どもがイヤイヤ期に入って、どんどん自我を表してきます。成長著しく頼もしい。と、思いつつも、ダダこねたり泣きわめいたりすると、なかなか大変です。全力で抵抗されると、パパですら抱えられません。(しかも右腕を骨折中…笑)力のある限り、泣く、泣く。そして、力尽きたらパタンと寝る。かわいいもんです。

大人も似たようなところあります。好きでやっていても、無理をしていても、力が尽きた途端に潰れてしまう。夢中も必死も、あんまり変わりなく。ブレーカーが落ちたら最後、子どもと同じように、パタンと倒れてしまいます。同じ人間です。

子どもは、パタンを繰り返します。パタンになり続ける様子は、全力で成長している証拠なんだろうなって。0歳の何にもできなかった頃を考えると、この先も期待してしまいます。大人の成長とは比べられない早さ。まだ2、3歳では想像つかない成長があるんでしょう。嫌な食べ物も、苦手なシャワーも、時間をかけて克服していく。自分の限界を拡張する期間なんでしょうね。

その、目に見える成長の裏、語られない背景に、耐えたり、自制したり、おともだちと足並みをそろえたり、いわゆる非認知能力を少しずつ獲得していると感じます。「お兄さんだね」「お姉さんだね」なんて声をかけるときは、そう感じる場面なんじゃないかな。

大人はどうだろう?イヤイヤ期とまでいかずとも、不満や異論を持つことは当然あります。でも大人は、あまりパタンとはならない。イヤイヤ言えない。試行錯誤しまくれない事情もある。不満や異論と個別化した、社会人としての協調性や帰属意識を持っていたり。おそらくそこでも、非認知能力を活かしてるんでしょうかね。

自分がパタンといって半年休職した時に、復職か離職かを考えたことがあります。環境を変えることも、もしくは環境は変えず、自分を変えることもできた。結果的に後者を選んだのは、正直なところ環境、外的要因のせいにした部分もあったからでした。(もちろん環境を変えることも、悪いことじゃないですが。)誰も万能じゃないとともに、誰もが不満や異論を抱えている。それを思っての選択でした。

復職時には、はじめ目標100点中1点でもいいから、この中でできる自分でいよう、と考えていました。当時も1点の動きを引け目に感じることはあったし、今の今も、自己評価30点の動きに落ち込んだりします。落ち込んだときは、目標を100点から30点に落としたりしました。周りと合意のもと、この環境でできる30点のうち30点取れたなら、あら、実はすごいやん、なんて捉えたりして。1点でも30点でも、全力だったらそこまでです。個人の内的要因だけでなく、職業や働き方、関わり方といった外的要因で目標は変わるはず。

復職してかれこれ5年。今も内的要因だけじゃなく、外的要因にも大きく影響を受けていると考えます。自分だけでなく、相手も万能じゃない。お互いに持ちつ持たれつ。

もし、そんなふうに捉えられなかったら。意味や役割、あるべき論、ロジカルシンキングやクリティカルシンキングにとらわれすぎて、不満や異論だけでいたら。たぶん就労を続けることもなかったんじゃないか、と思います。

いまイヤイヤ期の子どもを見ていると、大人でも、この非認知能力を諭されてるような気になります。目に見える能力だけで人を判断しない。不満や異論を抱えつつも、100点に遠く至らなくても、前向きにこの時間を過ごしたい。なんてことを思います。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。