没個性で苦しむ誰かに、ペツェッティーノが教えてくれること
SNSのモラルを欠いた投稿で炎上するケースをちょいちょい見かける。
炎上した彼らは愉快犯だったんだと思うが、環境や心理など、そうさせる背景が気になっている。同じ時代に生きる人として、あまり他人事でもない。
1つの答えを教えてくれる絵本とともに、捉えてみたい。
個人を満たす環境
<インターネット(inter-net)は距離を超える>というのは、もう20年以上も前の話かもしれない。いまや、老若男女の手中は、様々な境界と思惑が入り組んだモザイクの深淵につながっている。誰もが好きな情報を探し、タイムラインを選ぶことができる。一方で個々人は分断され、干渉しない。
恐ろしいのは、年々、自分がいまどんな情報に囲まれて、どこにいるのか、自分で分からなくなっていることだ。情報は検索することもなく通知され、キュレーションメディアや広告は、個人の関心軸にあわせて欲を満たしている。そのモザイクの1点で、個人が満たされ続ける結果、何が残るのか。
「いいね」の背景にある虚無感、孤独感
個人主義は穏やかに、効率よく、時間とお金を奪う。他者の存在が薄れ、自分を測るものがなくなる。そしてその場所から、自分がなくなる。
他人も自分もない匿名の場所で、あなたが「いいね」で興味を惹かないなら、もはや誰もあなたを気にしない。
あなたは「ナニモノ」でもない。
代わりがいる。
価値のない存在になる。
勝手な憶測に過ぎないが、彼らの影は、そんな「ナニモノ」でもない虚無感、孤独感を抱えていたんじゃないか、と思う。それは同じ時代を生きている、彼ら以外にも感じうることだろう。
ペツェッティーノは誰かの部分か
僕は小さなオレンジの四角 みんなはイロトリドリ
僕はだれかの部分品 だれの部分品なんだろう?
そんなところから始まる「ペツェッティーノ」という絵本がある。スイミーで有名な作家レオ・レオーニの作品だ。日本語訳は谷川 俊太郎さん。
主人公のペツェッティーノはこの「オレンジの四角」(?!)彼はそれ以外のなんでもない、と思っていた。でも、多彩な他者の存在に触れて、その一部に自分を見つける。ペツェッティーノはきっとだれかの部分品だ。
(※こちらは本文ではありません)
しかし、なんという絵本だろう。。
彼は、自分がだれの部分品なのか知りたくなる。さまざまな他者と会い、そして小さな身体で海を超える。
さまざまな経験を経て、やがて粉々になったペツェッティーノは、そこにイロトリドリの自分を見つけるのです。
イロトリドリノセカイに旅立とう
作者のレオ・レオーニは、子どもの読む絵本にモザイクという描画手法を選んだ。端的に表された世界はとても色彩豊かに映る。
SNSでこれが自分だ、と既定する必要はない。誰かの承認を得る必要も、個人主義の狭い世界で、希薄なアイデンティティを持つ必要もない。もし「ナニモノ」でもない虚無感、孤独感があるなら、他者に触れて、粉々になったところで自分が見つかるかもしれない。
「さぁ、イロトリドリノセカイに旅立とう。」
ペツェッティーノはそう諭してくれるように思うのだ。
(以下はレオ・レオーニ出身のオランダで有名なキューケンホフ公園)