身近な冷笑が笑えない
冷笑主義(シニシズム)が記事に取り上げられていました。度々ネットで言われる内容ですが、少しずつ目にする機会が増えているように思います。
Twitterをみていれば、いくらでも他をあざ笑うような、否定的な意見を目にします。もはやリアルな人間関係と無関係には思えなくなっています。
全くの抽象論ですが、いつもより厳しめに捉えてみたいと思います。
身近な冷笑
メディアが人に影響を及ぼすことは多いにあります。テレビニュース然り、キュレーションメディア然り、Twitter然り。
冷笑主義(シニシズム)に対する批判的な意識があります。それも、身近に感じる機会があります。普段働いていて感じることはないでしょうか?あるいは、自分の発言や行動に身に覚えはないでしょうか?
組織と冷笑の出どころ
たちいかないことって、たくさんあります。組織の中にいたら珍しくもありません。筋が違えば、冷笑することもあるでしょう。
正しい答えを求めて探せば、それらしい情報がいくらでも手に入る。
その冷笑の素(もと)は、誰のものでしょうか。ただ拾ってきただけの自分の意思とは関係のないものか、本当に自分だけのものか。その冷笑は、誰に対するメッセージでしょうか。特定の他者か、チームか、組織か、あるいは社会か。それによって話が変わってきます。
特に自分本位な冷笑は、もっともらしさや正しさを過剰に求める社会の問題のように感じます。気になるのは、冷笑したところで何も変わらない、ということです。
自分本位の冷笑は他責思考
ハッキリ述べてしまうと、自分本位な冷笑は、自分以外に対する責任逃れだと思えます。責任を自分以外にばかり求めても世界は変わりません。
本人がどんなに筋が通っていて、強い思いや明確なビジョンを持っていたとしても、ひとりで閉塞感を抱えて行動できないなら原因は自分にある。周りからしたら単なる言い訳も、本人にすれば必死だから余計に難しいんでしょう。
自分本位な冷笑は他責思考。それだけ考えていて済むなら問題はない。でもそれは、他者の優しさを知らない放火殺人犯のように、周りとの(無い)関係性の中で軋みを生むことでしょう。人と人が関係して人間である以上は。
否定してるだけでは何にもならない
思考はどうあれ、本当に変えたいと思うなら、相応のやりかたがあります。それは自分本位のままでは変わりません。
本人に少しでも他者がみえていたら、その声を聞けたなら、自分の中の何かが変わる。他者もまた人間だから、双方の事情を理解して、行動する。そして行動が行動を呼び、冷笑は共感に変えられるものだと思いたい。
チームの期待値や成果を明らかにすることも、何かをリードすることも、他者のモチベーションを支えることも、痛みを理解して寄り添うことも、すべて自分からできること。
自分だけで何かを否定しているかぎり、世界は何も変わりません。自戒を込めて。