「テクストを理解するときによくある間違い。正しくは?」
ロラン・バルトのテクスト論及びエクリチュールについて、具体的かつ厳密に言うと、これらの概念は文学理論や言語学において重要な位置を占めています。テクスト論は、テクスト(文)そのものを分析し、その構造や意味を探求する学問領域であり、エクリチュールは個々の作品やテクストの創造的な側面に焦点を当てた概念です。
テクスト論においては、テクストが単なる言語の集合体ではなく、文化や社会と深く関わり合っていることが強調されます。バルトは、テクストが読者によって解釈されることを重視し、テクスト自体のみならず、読者の背景や文脈も意味形成に影響を与えると述べています。このような視点から、テクスト論は単なる文章の分析にとどまらず、文化や社会の複雑な関係性を考察するための手法としても位置付けられています。
一方、エクリチュールは、個々の作品やテクストの創造的な側面に焦点を当てた概念です。バルトは、作家が自らの個性や経験を超えて言語を操り、新たな意味や美を生み出す行為としてのエクリチュールを強調しました。また、エクリチュールは常に他者のテクストや文化との関わり合いの中で生まれるものであり、個々の作品が孤立した存在ではなく、豊かな文化的背景との関連性が重要であると述べています。
このように、テクスト論及びエクリチュールは、単なる文章の分析や作品の創造にとどまらず、文化や社会との深い関わり合いの中で意味を持つ重要な概念であり、その理解は文学理論や言語学だけでなく、人文科学全般において重要なものと言えます。
これでわかってもらえるかな?
手紙を頂いた彼はテクスト論をプラグマティズムといっている。フランスの現代思想でそういったことを聞かない。
テクストは、永続的に「読者の好意」「想像的なる行為」によって起こるものであり、「複数テクスト」が常に生まれる。
読者と作者は、意図的に身において関係ない。
作者の死という概念がある通り、大切なのは「読者の読書するという永続的な意味生成理論」なのである。
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頂いた手紙、プライヴァシーには配慮してあります。
ぼくのテクスト論の理解はすでにジャンさんちのコメント欄で書いています。繰り返すならば、ぼくにとって〈テクスト論に従った読み〉とはテマティズムに従って読むことに通じています。すなわち、蓮實重彦さんの『夏目漱石論』のような読み方(読解)です。他方、その蓮實さんは『凡庸な芸術家の肖像(マクシム・デュ・カン論)』もまた書いていて、こちらはテクスト論ではなく、フローベールの同時代人であるデュ・カンの人物評伝です。
なお、ぼくの三島論は、テクスト論を尊重しつつも、正確には三島の内面と人生を解読する、すなわち前者と後者両方にまたがったものです。
次に、テクスト論はけっして個々のテクストの優劣を問題にしませんが、しかしながら、それであってなお、対象とするテクストをテクスト論を使って読む必然性の有無という判断はあって。たとえば、極端な話、電気製品の取り扱い説明書や、六法全書をテクスト論を使って解読する必然性はありません。あくまでもテクスト論は、テクストの背後に、他ならないひとりの書き手が存在していることが暗黙の前提になっています。
つまりテクスト論と、作家評伝は表裏一体で、喩えるならば紙の表裏のようなもの。
三番目に、テマティズムは構造主義のなかから生まれた作品解読の一方法です。したがって作品の価値の優劣を問いません。しかしながら、署名入りのテクストは著者の美意識が関与していて、そこには著者ならではの美の階層構造が存在します。金閣寺を最高と見なすのか、それともハーレー・ダヴィッドソンを至高とするのか、というようなことです。文学で言えば、太宰と三島のどちらを優れているとおもうのか、というようなことではあります。なお、ぼく自身はこの問いには関心を持ちませんが、しかしながらそんなぼくは、小林秀雄よりはロラン・バルトの方がよほど偉い、とはおもっています。
最後に、人はなにかを書くことによって、文学社会に参加することができます。そしてその人の書くテクストの水準と、その人の読みの水準は、おおよそ比例しています。すなわち読むことと書くこともまた紙の裏表の関係にあります。だからこそ書き手は精読とともに書く能力をも上げるべく努力します。卑近な例で言えば、われわれはせめて文学雑誌4誌に掲載されうる水準の文章を書く必要があるということです。
ジャンさん、お互いにテクストを精読し、水準をクリアしたテクストを書くべく、ともに努力してゆきましょう。
これは決定的に間違っています。
書き手より読み手が、読書する方が大切であり、想像的なる読書が意味生成理論には必要なのです。そのことによって、様々な「象徴的なること」に解釈が与えられるのです。