やってみる!
「あきらめてください。」と言われた命。生きられないと言われた体。立てない。歩けない。持てない。それでも、ランドセルを背負う練習をして二学期から小学校一年生に。授業はまるでわからない。上靴もまだ履けない。足の固定用の靴を履き、なんとか地面に足をつけていた。そして7才になる手前であちこち病院を行き巡って、生まれた町の障害児リハビリ施設に入る。子供だからカメラに映るのがうれしくて、白衣に取り囲まれて歩いた。踵は無事地面に着くようになった。私は歩けるうれしさに、金具が体重で曲がるほどに動き回った。生活のすべてはまっすぐ歩けるように。そのために回っていたから、繰り返す足の手術と手足のリハビリの間の学習は取り残されるけれども、元から教科学習は学年制ではなかったし、お風呂に入ることの方が優先されるような仕組みになっていた。
そんな六年間を過ごし自動的に卒業して自動的に中学へ。普通の中学に行けておめでとう!と祝福されたけれども当然勉強はできなかった。唯一中学から一斉にスタートした英語だけは頭に入った。まだ発達障害や学習障害という言葉もなかった時代。目に見える歩けないという障害にすべてはカモフラージュされて、英語だけわかるということも「よくがんばっています。」と障害を持ちながら素晴らしいと先生たちは親に伝えた。実際、一度聞けば英語はわかった。漢字を知らないため和訳には苦労した。わかっているのにテストの点数には結びつかない中学時代だった。それでも、それなら、英語だけやればいいとできないなりに考えた。
自分の名前だけ書けるような状態で、補欠合格で私立の高校に入れてもらった。そこは大学合格にむけてすべてのカリキュラムが組まれていた。私は受験に必要な英語と、和訳のための国語も小論に届くまで勉強した。そして志望校に入学。そこに障害者という概念はなかった。授業は英語。表現することがすべてだった。就職してからも英語漬け。
30年余り働いて退職。再就職したが、コロナ中に失職。障害者就労支援施設の在宅ワークで絵を描き始めた。自分が絵が描けるとは知らなかった。聖書アプリの絵も担当になった。人生は不思議だ。電動車椅子のためか不採用通知降り注ぐ今、英語をやり直そうと決意する。覚えた英語は古めかしい。宿題で書いた物語も時を経て新しい英語で絵本にしたい。道は険しい。どんなに楽しいだろう、それならば!
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