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草木と生きた日本人 紫

一、序

 けぶり立ち もゆとも見えぬ 草の葉を たれかわらびと 名付けそめけむ
 (煙が立つて燃えてゐるとも見えない草の葉を、誰がわらびと初めに名付けたのでせうか)

 『古今和歌集』に収められた歌です。蕨が藁火とかけられてゐます。『万葉集』には少なかつた、巧みな技術が用ゐられてゐますね。
 前回のお話しは蕨、そして志貴皇子の春のよろこびを歌はれた御歌を詳しく紹介しました。ちやうど、私は一月のある日、白毫寺や高円山のあたり、さらに藤原宮跡などの志貴皇子にゆかりある地を訪ねる機会があり、志貴皇子を偲びました。
 いよいよ二月となりました。暦の上では春とはいへども、寒さは厳しく、流行りの風邪などにかかられた方もをられませう。しかし、あと二ヶ月もすれば一般的な春になります。今しばらくの辛抱です。
 今回は、咲く花とすれば季節外れではありますが、多年草である紫についてお話しいたしませう。

二、紫

 いつものやうに『日本国語大辞典』で紫を見てみませう。

 「ムラサキ科の多年草。各地の山地に生える。根は太く紫色をし、茎は高さ三〇~五〇センチメートル。全体に剛毛を密布。葉は披針形で厚い。夏、包葉の間に先の五裂した白い小さな漏斗状花が咲く。果実は卵円形で淡褐色に熟す。昔から根は紫色の重要な染料とされ、また漢方で解熱・解毒剤とし、皮膚病などに用い、特に、紫根と当帰を主薬とした軟膏は火傷、凍傷、ひび、あかぎれに効く。漢名に紫草をあてるが、正しくは別種の名。みなしぐさ」

とあります。また、藤の花の異名としても紫草があります。
 「むらさき」の語源は「群ら咲き」といふ説と、紫色の根に由来するといふ説があります。どちらが本当かはわかりません。
 北海道、本州、四国、九州に分布してゐますが、自生のものは少なく絶滅危惧種となつてゐます。
 身近なところですと、お風呂の入浴剤に紫根エキス入りのものがあります。紫根染めで作られた素敵な着物もあります。岩手県では、南部紫根染めといつてよく知られてゐます。
 また、わが国の歴史を見ると聖徳太子の定められた冠位十二階の最高位にある大徳、小徳が紫色であつたといふ説があります。同じやうに高僧に与へられる衣が紫色だつたことも紫衣事件などで知られてゐます。それらは紫根染めによつて染められたのでせうか。
 私事で恐縮ですが、私の卒業した大学のスクールカラーが紫紺でした。父も同じ大学を卒業してをり、「我が家には紫紺の血が流れてゐる」などといふ冗談を生前、よく言つてゐました。

三、『万葉集』に詠まれた紫

 紫は『万葉集』にたびたび詠まれました。その代表的なものとして、次の歌がよく知られてゐませう。
 天智天皇七年五月五日、天智天皇が宮廷人をともなひ近江国の蒲生野に遊猟されました。その際に額田王は次の歌を詠まれました。

 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (『万葉集』巻第一・二〇)
(紫草の生えた野の、立ち入りを禁じた標野の中を行き来して。野守が見ないはずはありませんよ。あなたが袖を振るのを)

 そして、皇太子・大海人皇子(後の天武天皇)は次の御返歌を詠まれました。
 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも (巻一・二一)
(紫草のやうに美しいあなたを、嫌に思ふのならば、人妻なのに何故こんなに私は恋しく思ふのでせう)

 ちなみに、この二首は天智天皇と天武天皇と額田王の三角関係を歌たつたものとして一時期、解釈されてゐました。しかし、今では天智天皇との三角関係にあつたといふ説は否定され、宴席のおたはむれの歌と考へられてゐます。その証拠に、この御歌は恋の歌などを収める相聞歌の部ではなく、公的な場で詠まれた歌を収める雑歌の部に収められてゐます。
 そして、額田王の歌は今でも多くの人を惹きつける名歌として知られてゐます。『万葉集』に興味をもつたきつかけにされる方も少なくないとか。
 額田王は謎の人物です。それゆゑに『万葉集』の研究者で文化勲章をもらつた中西進氏は帰化人系としてゐます。はつきりいつてうがち過ぎです。「権威」が言ふことが全て正しいわけではありません。
 額田王は『日本書紀』の「天武天皇紀」に「天皇初め鏡王女と額田姫王を娶り、十市皇女を生む」とあるのみで、鑑王女の妹と考へられてゐます。大和国平群群額田郷に住んでゐたことから、額田王と呼ばれてゐたとのことです。それ以上の情報はありません。
 歌では紫を栽培する野を標野、つまり一般人の立ち入りを禁じた地としてゐます。当時、朝廷が各地に紫の栽培を命じてゐたさうです。そして、大海人皇子は紫のやうに美しい額田王と詠み応へてゐます。
 紫は花の白くて美しい様子と、もう一つ染めものとしての様子が歌に詠まれました。次の問答歌を見てみませう。

 紫は 灰さすものそ 海柘榴市(つばいち)の 八十のちまたに 会へる子や誰 (巻十二・三一〇一)
 (紫の染料には灰汁を入れるものです。灰にする椿ではないが、海柘榴市の八十の辻で会つたあなたの名はなんですか)

この歌に応へたのが、次の歌です。

 たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか (巻十二・三一〇二)
 (母親が私を呼ぶ名を告げもしようけど、道の行く途中で知り合つたあなたを、如何なる人と思つて告げるのでせう)

 一首目の歌ですが、紫は女性を、灰汁を男性に例へてゐます。海柘榴市で行はれてゐた歌垣(上代において春や秋に男女が集まり、歌をかけ合つて舞踏して楽しむ行事)での歌でせうか。
 さて、この二首からは上代の様々なことを汲み取れます。海柘榴市は八十のちまた(多くの別れ道があつた)こと。なほ、海柘榴市は山辺の道の起点があつたと考へられてゐます。また、当時は女性が男性に対して名を告げることに大きな意味があつたことです。第一回の若菜編でも述べましたが、名を答へることは結婚の成立を意味しました。そして、紫からとつた染料には灰汁を入れる点です。しかも、その灰汁には椿が用ゐられたのでした。現代でも、岩手県の紫根染めでは、灰汁に椿を用ゐるさうです。

四、武蔵野と紫

 『古今和歌集』の時代になると、次の歌がとても有名になりました。

 紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る
 (紫のこの一本のために武蔵野の草木はみな素敵なものに見えることです)

 詠み人しらずのこの見事な歌、武蔵野と紫の表現を一定のものとしてしまひました。
 紫といふ名詞を用ゐることなく、「武蔵野の草」と詠まれたりもしたのでした。

 武蔵野の 草はみながら うづもれて 霰に残る 笹の音かな (『順徳院集』)

 枕詞の用法としても使はれました。「紫の…」の後には、「にほふ」、「色に出づ」など、また染料として名高いので「名高の浦」や、藤の花と同じ色であることから「藤江」、「藤坂山からなどにも続きました。なほ、「にほふ」に続くのは、大海人皇子の御歌の影響でありませう。

 紫は、ここまで見てきましたやうに、古くから多くの人に愛されてきました。その白く小さく咲く美しい姿は女性に例へられ、染め物としても私どもの先祖に愛されて、今に伝へられました。
 まだまだ紫の白き花の咲く時期ではありませんが、初夏のころ、旅先や公園などに咲く紫に目を向けてみてはいかがでせう。


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