見出し画像

草木と生きた日本人 をみなへし



一、序

 あしひきの 山菅の根の ねもころに われはそ恋ふる 君が姿に (『万葉集』巻十二・三〇五一)
 (あしひきの山菅の根のやうに懇ろに、私は恋するよ。あなたのお姿に)

 前回のお話しは山菅、ヤブランでした。右の一首は、名も無き人の歌、しかし山菅も前からお話ししてきました草木、そして花と共に多くの古へ人に愛されてきました。
 また、菅は、右の歌にもあるやうに、その根も歌に詠まれました。

 菅の根の ねもころごろに 照る日にも 乾(ひ)めやわが袖 妹に会はずして (巻十二・二八五七)
 (菅の根のやうに懇ろに、さんさんと照る陽の光にも乾くことがあらうか、私の袖は。妻に会はないで)

 この歌も名も無き人の歌です。袖が濡れてゐるのは、妻に会へない嘆きの涙によります。妻問婚の古へは、右の歌のやうに夫は妻を思つたのでした。
 ちなみに、菅の根は、その根の状態から長きや乱るにかかり、同じ音からねもころ(懇ろ)にかかる枕詞でもあります。
 いよいよ本格的に寒くなつてきました。今回はやや季節外れではありますが、をみなへしの花についてみて行きませう。

二、をみなへしの花

 たびたび紹介してゐる山上憶良の次の歌を改めて確認しませう。

 秋の野に 咲きたる花を および折り かき数ふれば 七種の花 (『万葉集』巻八・一五三七)

 萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (巻八・一五三八) 

 二首目の旋頭歌の内、萩、尾花、撫子、朝顔は前に紹介しましたね。覚えてをられますか。
 いつものやうに、『日本国語大辞典』のをみなへし(おみなえし)の項目を見てみませう。

 「オミナエシ科の多年草。各地の日当たりのよい山野に生える。秋の七草の一つ。茎は直立して高さ〇・六~一メートルくらいになる。葉は対生し、長さ六~一二センチメートルの長楕円形で羽状に分裂する。夏から秋にかけて、枝の先端部に黄色の小さな花が多数、密に集まって咲く。根を煎じたものは吐血、鼻血などに薬効があるという。漢名は黄花龍芽で、敗醤はオトコエシの漢名。おみなし。おみなめし。ちめぐさ。あわばな。」

とあります。
 をみなへしはまたの名を敗醤といひます。花を室内に飾つておくとやがて醤油のくさつたやうなにほひがするからださうです。和名のをみなへしは、同属で白い花をつけるをとこへしに対して付けられたとされてゐます。漢字では女郎花と書きます。その名ゆゑに、女性に見立てて詠んだ歌も数多く見られます。

三、『万葉集』に詠まれた女郎花

 をみなへしも、古へ人に愛された花でした。その例を『万葉集』で確認してみませう。
 まづは太宰府の諸卿大夫、官人たちが、蘆城の駅家で宴をした時に詠まれた歌です。この時、二首の歌が作られましたが、そのはじめの歌をみてみませう。

 をみなへし 秋萩まじる 蘆城の野 今日を始めて 万代に見む (巻八・一五三〇)
 (をみなへしに秋萩の咲きまじる蘆城野よ、今日をはじめとして、いつまでも見やう)

 卿とは大弐より上の人、大夫とは国司より上の人、官人はその人たちより下の人といふことです。蘆城の駅家は太宰府の東南の地、ここで九首の歌が作られ、『万葉集』に録されました。蘆城の野は、をみなへし、そして萩が咲いてゐました。そして蘆城川の美しさも歌に詠まれたのでした。その当時、蘆城の野は風光明媚な地だつたのでせう。なほ、作者が誰なのかはわかりません。

 この歌のすぐ後にもをみなへしを詠んだ次の歌があります。

 をみなへし 秋萩手指れ たまほこの道行きつとに 乞はむ子のため (巻八・一五三四)
 (をみなへしも秋萩も手折るがよいでせう。旅のお土産を願ふいとしきあの子のために)

 この歌の作者は石川朝臣老夫といふ人ですが、どのやうな人かわかつてゐません。また、歌もこの一首のみです。

 次に、名も無き人たちの歌を見てみませう。まづはこの歌。

 わが里に 今咲く花の をみなへし あへぬこころに なほ恋ひにけり (巻十・二二七九)
 (私の里に、今を盛りと咲くをみなへしよ。堪へがたい気持ちで、やはり恋ひに苦しむものだナア)

 この歌のをみなへしは、女性を寓意したものでせう。会ひたくて会ひたくて心が苦しく、辛くなるのは古今東西同じものと考へさせられます。
 続いて次の歌。

 手に取れば 袖さへにほふ をみなへし この白露に 散らまく惜しも (巻十・二一一五)
 (手に取ると、袖までも色どられたをみなへしが、この白露によつて散つてしまふことが惜しまれるものです)

 女性を寓意したものではなく、純粋にをみなへしを歌ひ、白露に散る姿を惜しむ心と景を詠んでゐます。万葉人の草木への愛情と惜別の情とが感じられる歌ですね。名も無き人であつても、高い地位にあつた人もそれは同じでした。

四、後の時代のをみなへし

 『万葉集』以降もをみなへしは歌に詠まれました。例へば『源氏物語』を見てみると、夕霧の巻には、

 をみなへし しほるる野辺を いづことて 一夜ばかりの 宿を借りけむ

とありますし、さらに総角の巻には、

 霧ふかき あしたの原の をみなへし 心をよせて 見る人ぞ見る

とあります。それは前栽の花や、襲色目の名としてでした。
 『源氏物語』の作者は紫式部ですが、彼女の歌は、『新古今和歌集』にも載せられてゐます。その中には、次の歌があります。

 女郎花 盛さかりの色を 見みるからに 露の分きける 身こそ知しらるれ
 (女郎花の朝露に美しく映える盛りのころの花の色を見たばかりに、露が分けへだてた我が身のことが、つくづくと思ひ知られることです)

 この歌、『紫式部日記』によれば、寛弘五年(一〇〇八)の七月、この歌の作者である式部は主人である中宮彰子の出産のため、彰子の父である道長の邸に滞在してゐました。ある日の朝、外を眺めてゐるの道長が花盛りのをみなへしを作者にかざしね歌を詠むよう言ひました。それに応じて即興で詠んだ歌がこの歌です。歌中の「露」は道長の情愛をたとへてゐます。花の盛りと、自らの身の盛りが過ぎたことを嘆く歌。それは小野小町の、

 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

と似てゐるやうに感じます。平安時代を代表する才女、紫式部も、その花の美しさに感じ入りました。彼女たち、いな、素敵な歌を今に遺してきた古へ人の知性の土台は、花の美しさに心を寄せる感性のやうな気がしてなりません。
 しかしながら、中世以降、をみなへしが歌に詠まれることが少なくなります。細かくは述べませんが、八代集を見ても、『古今和歌集』や『後撰和歌集』と比較して、『千載和歌集』や『新古今和歌集』などには半分以下に減つてゐるのです。

 をみなへしは黄色く小さな花、万葉の古へ人に愛された花でした。すでに盛りの季節は過ぎてしまひましたが、読者の方の中には、その美しく咲く姿を見た方もをられるかも知れませんね。
 時は巡り、また次の秋が来たら、をみなへしを思ひ出してみてください。この一文がその一助になれたら幸甚です。


いいなと思ったら応援しよう!