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クリムト〈白樺の森〉

グスタフ・クリムト、といえば、〈接吻〉や〈アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像〉など、黄金に包まれた絢爛たる人物画が連想されるだろう。
しかし、彼は一方で風景画にも力を入れていた。1898年頃に初めて風景画を描いてから亡くなるまでの間に50点あまりの風景画を描いており、その数は、クリムトの全作品数の約4分の1に相当する。
一体なぜ、彼はこんなにも多くの風景画を描いたのか?彼にとって、風景画とは何だったのか?
その答えを探ってみよう。

①クリムトの決断

グスタフ・クリムトは1868年にウィーンで金細工師の息子として生れた。
1876年にオーストリア美術工芸学校に入学した彼は、在学中に友人マッチュと2歳下の弟エルンストと共に、芸術カンパニーを立ち上げ、劇場や邸宅などの内部装飾を手掛けるようになる。
1888年には皇帝から勲章を授与され、さらに1891年には芸術家協会の会員として認められるなど、順調にキャリアを積み重ねていく。
が、1892年、父と弟の死をきっかけに、クリムトの中に疑問が生まれた。
自分は本当に、今のままで良いのだろうか?
当時のウィーン画壇では、保守的で伝統を重んじる芸術家協会(クンストラー・ハウス)が大きな力を持っており、クリムトたちもクライアントの意向に従い、聖書や神話を題材とするモチーフをオーソドックスな技法で描いていた。
だが、オーストリアの外、特にフランスでは印象派やポスト印象派など、若い画家たちが「伝統」の枠から一歩踏み出し、それぞれに新たな独自の画風を追求している。
人生は一度しかなく、その終わりが来るのは数十年後かもしれないし、明日かもしれない。
やりたい事に挑戦もせず、ただ安定だけを求め、唯々諾々とクライアントの意向通りに描き続けるだけで本当に良いのか?
そもそも、自分のやりたい事とは、描きたい絵とは一体どのようなものなのか?
その疑問は、1894年に受注したウィーン大学講堂の天井画の案件に取り組む中で、大きく膨らんだ。
下絵を描くにあたって、クリムトは、クライアントから与えられた「哲学」「医学」「法学」のテーマを数百年前からの伝統的手法ではなく、独自の解釈によって表現したのである。
 

グスタフ・クリムト〈医学〉(焼失)(パブリック・ドメイン)(出典:Wikipedia)


 下絵は激しい議論を引き起こし、クリムト自身も、大学関係者たちの無理解や、閉鎖的で「新しい表現」を認めないウィーン画壇の在り方に嫌気がさしてしまった。
1897年、クリムトは同じく「保守派」に反発する若い芸術家たちと共に芸術家協会を脱退し、新グループ「ウィーン分離派」を結成。その初代会長に選ばれた。
それは、独自の道への第一歩だった。

②分離派として

グループとは言っても、メンバーたちは絵画、デザイン、建築などと専門とするジャンルもバラバラで、作風も十人十色だった。が、伝統の枠組みやルールから離れ、自由に新しい表現を追求していこうとする姿勢では一致していた。
結成の翌年に完成した拠点・分離派会館では、メンバーの作品発表だけでなく、フランスの新印象派や日本美術など国外の美術の紹介も行われた。
それらの経験を通して、クリムト自身も大いに学び、<ユディトI>や<ベートーヴェン・フリーズ>に見られるような華やかで装飾的なスタイルを作り上げていく。

グスタフ・クリムト、〈ユディトI〉、1901年、ベルヴェデーレ美術館(パブリック・ドメイン)(出典:Wikipedia) 


グスタフ・クリムト、〈ベートーヴェン・フリーズ(第3の壁)〉、1902年、分離派会館(パブリック・ドメイン)(出典:Wikipedia) 


1902年の第12回分離派展では、「ベートーヴェン」をテーマに据え、特別に造られた展示室の中に、メンバーたちが絵画や家具など、自分の得意とするジャンルで楽聖ベートーヴェンに捧げる作品を制作・展示した。クリムトが担当した縦2.2メートル、全長約38メートルにも及ぶ壁画<ベートーヴェン・フリーズ>は、ベートーヴェンの『第9』の世界観を表現したもので、この「第三の壁」は、第4楽章のに相当する。まばゆい黄金の光の中、女性たちが「歓喜の歌」を高らかに合唱する中、画面右では裸の男女が抱き合っているが、これは歌詞の「この接吻を世界に」をそのまま表したものである。さらにオープニングの日には、マーラーによって、『第9』の第4楽章の一部をアレンジしたものが展示室内で演奏された。ここに「ベートーベン」というテーマのもと、絵画や建築、デザイン、さらには音楽までもがジャンルの枠組みを越えて結びつき、「総合芸術」と言うべきものが現出した。 伝統的な技法で決まった主題を描き続ける安泰な道を捨て、クリムトが選んだのは、端から見れば「茨の道」だったかもしれない。批判や中傷の声は少なくなかったが、賞賛してくれる者も確かに存在していた。そして何より、そこには自由と未知の可能性が溢れていた。伝統に縛られず、良いと思ったものを外から取り入れ、自分たちの手で新たなものを作り出していくことほどスリリングなものはなかっただろう。一度しかない人生だからこそ、行けるところまで行ってみたい。クリムトもそう考えたのかもしれない。

③癒しの一時 

とはいえ、戦い続ける日々は楽ではなかった。分離派結成の翌年から、クリムトは夏の休暇をウィーンから西へオーストラリア・アルプスの麓のザルツカンマーグートで過ごすようになる。ウィーンでの煩わしい人間関係を離れ、豊かな自然の中で過ごす2、3ヶ月は、クリムトにとってまさに癒しの時間だった。ザルツカンマーグートでは、彼はスケッチ用のノートと厚紙を切って作った正方形のファインダーを手に、「絵になる」風景を探した。この〈白樺の森〉もそのような日々から生まれた1枚である。 

グスタフ・クリムト〈白樺の森〉、1903年、国立オーストリア美術館(パブリック・ドメイン)(出典:Wikipedia)


正方形の画面の中には落ち葉で埋め尽くされた地面と、様々な太さの木の幹が描かれている。木の上部は画面の上部で断ち切られ、空は見えず、空間の奥行きもあまり感じられない。特に前方の木々は画面にペタリと張りついて見える。
点描風のタッチで細かく描かれた落ち葉と、まっすぐに立つ木の立ち姿や色はコントラストをなし、まるで工芸品のようでもある。
クリムトも、ファインダーを通してこの景色を見出した時、同じような連想をしただろうか。
 
1905年にクリムトは分離派を離れ、新グループ「オーストリア美術家連盟」を結成。1910年代に入った頃には、黄金様式から、カラフルでより自由な表現様式へと移っていく。
その一方で毎年夏のザルツカンマーグート行きの習慣も、亡くなる2年前まで続けられていた。
心の赴くままに、自然の中を歩き、ファインダーで風景を色々と切り取ってみる。そして微かな「感動」を捉え、絵画作品へと仕立て上げていく。クリムトにとって、そのプロセスは「感性」に潤いを与え、新たな活力を得ていくものでもあっただろう。
ウィーンでの人物画や肖像画が、主に展覧会用や注文を受けての制作だったのに対し、風景画はクリムトが自分のために制作するものであり、彼の画業においては、人物画と並ぶ両輪だったと言えるかもしれない。
 
 

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