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草木と生きた日本人 杜松
一、序
玉に貫き 消(け)たずたばらむ 秋萩の うれわわらはに 置ける白露 (『万葉集』巻八・一六一八)
(玉に貫いて消えないでほしいものです。秋萩の枝の先に置いてゐる白露を)
この一首は、志貴皇子の御子、湯原王のお歌です。王は御父に継いで、素敵なお歌をいくつも作られました。この秋萩を詠んだお歌も見事です。
萩といへば他にも巫部麻蘇郎女といふ経歴のわからない謎の女性による、
わが屋戸の 萩花咲けり 見に来ませ 今二日だみ あらば散りなむ (巻八・一六二一)
(私の家の萩の花が咲きました。見に来てくださいね。あと二日くらゐで散つてしまひませう)
といふ、咲きのさかりを理由に男性(夫)を招く歌もあります。
なんと雅な感性でせう。
ちやうど今ごろ、奈良の高円の白毫寺の萩の花は今を盛りと咲きにほつてゐるでせうか。
前回、志貴皇子の挽歌から萩の花を見てきました。『万葉集』で最も多く詠まれた花は萩であり、志貴皇子のみならず、数多のいにしへ人に愛された花、それが萩でした。
二、大伴旅人と萩
志貴皇子に限らず、いにしへ人が萩を愛した具体例を、大伴旅人に見てみませう。
まづは簡単に旅人の経歴を見てみませう。父は安麻呂で母は巨勢郎女です。子には『万葉集』を編纂したと考へられる家持や書持がゐます。
養老二年(七一八)に中納言に昇り、二年後には山背摂官。後に征隼人持節大将軍として南九州の隼人の反乱を鎮圧しました。
神亀年間には大宰帥として筑紫に赴任し、山上憶良らとともにいはゆる筑紫歌壇を形成しました。今、用ゐられてゐる元号の「令和」の由来となつた梅花の宴は、この時に催されました。
そして、天平二年(七三〇)に大納言に昇り帰京します。その翌年従二位となりますが、まもなく薨じます。
旅人は花を愛した人でした。特に萩への愛情は次の歌からわかりませう。天平三年(七三一)七月二十五日。旅人は亡くなります。この時、旅人に仕へてゐた余明軍は深い悲しみの中、旅人の生前を偲び、次の歌を詠んでゐます。五首のうちの一首を紹介しませう。
かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも (巻三・四五五)
(人の命とはこのやうにあるものだから…。萩の花は咲いてゐるかと私に聞いてきた御主人よ)
旅人は、萩の花の咲き具合を気にして明軍に、
「萩の花は咲いてゐるかね」
と問ひたのでした。それは、いつのことかわかりません。旅人の元気な時であつたか、はたまた病床であつたのか、はつきりとはしません。
私の想像では、まさに自らの命が散るであらうその前に、つまり病床にある中で萩の花の咲き具合を問ひたと見るのです。
三、妻大伴郎女
旅人は太宰府で最愛の妻、大伴郎女を失ひます。その悲しみを、
世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(巻五・七九三)
(世の中はむなしいものだと知つた時。とてもとても悲しいものです)
と歌ひました。すでに六十の齢を過ぎてゐます。
そして、その悲しみに対して筑後守であつた山上憶良は、
妹が見し あふちの花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干ひなくに (巻五・七九八)
(妻が見た栴檀の木は散る気配を見せてゐます。悲しみの私の涙は未だに乾かないのに)
と歌ひ、悲しみに寄り添ひました。憶良は旅人自身になりきり、歌つたのでした。
「あふちの花」は栴檀、つまり白檀です。『日本国語大辞典』には、
「ビャクダン科の半寄生の常緑高木。インド原産で、熱帯各地で栽培されている。高さ七メートルに達する。葉は柄をもち対生し、葉身は黄緑色を帯び卵状披針形で、長さ五~八センチメートル。雌雄異株。花は枝先か葉腋に円錐状につき、はじめ緑白色で、すぐ赤変。果実は径約一センチメートルの球形で黒く熟す。心材は黄白色で、芳香があり、古くから香料として珍重される。また、仏像や美術品の彫刻材とされる。材を蒸留し白檀油を製する。栴檀せんだん。白檀の木」
とあります。
旅人は草木と共に生きたと同時に、誰よりも妻を愛したのでした。
四、杜松
やがて旅人は太宰府から都に帰ります。その途上、彼は亡き妻を偲び次の歌を歌ふのです。
鞆の浦では次の三首の歌を作りました。
我妹子が 見し鞆浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき (巻三・四四六)
(妻と共に見た鞆浦のむろの木は、まだかうして長く生えてゐるのに、妻はもうゐない)
鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (巻三・四四七)
(鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、一緒に見た妻を忘れることはないでせう)
磯の上に 根這ふ むろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか (巻三・四四八)
(磯のほとりに根を這はせるむろの木よ。共に見た人は今どこにゐるのか聞いたら、あなたは答へてくれるだらうか)
涙なくては読めない歌です。
鞆の浦は、広島県福山市にあります。『万葉集』のいにしへ以外にも、織田信長に京都を追はれた足利義昭が幕府を続けてゐた地としても知られてゐます。福山駅から鞆鉄バスで約三十分のところにあります。
歌の中のむろの木は、「ネズ」。すなはち杜松のことです。杜松を「日本国語大辞典」で見てみませう。
「ヒノキ科の常緑低木または高木。本州、四国、九州の丘陵などの日当たりのよい所に生え、大きいものは高さ一五メートル、径三〇センチメートルに達する。樹皮は灰赤黒色。葉は針形で横断面は三角形、先は鋭くとがり、小枝の節ごとに三本ずつ輪生する。雌雄異株。春、葉腋に小さな単性花をつける。果実は径一センチメートルたらずの球形で紫黒色に熟し、漢方では杜松子としょうしといい利尿薬に用いる。材は建築・器具・彫刻用。和名は「ねずみさし」の略で、とがった葉が鼠を刺して防ぐということによる。ねずみさし。むろ。むろのき」
鞆の浦での歌には三首全てにむろの木が詠まれました。何か意味があるかも知れません。単純に、一緒に見たから思ひ出となつて歌に詠んだとは思へません。
そして、都に帰つてからも、旅人は亡き妻を偲び、当時の思ひ出を歌にしたのでした。そのうちの二首を見てみませう。
妹として 二人作りし 我が山斎(しま)は 木高く茂く なりにけるかも (巻三・四五二)
(妻と二人で作つた庭は、木が高く茂つてきたナア)
吾妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに 心むせつつ 涙し流る(巻三・四五三)
(妻が植ゑた梅の木を見るたびに、心が苦しくなり涙が溢れてくることです)
一首目に出てくる「山斎」は池や築山のある庭園のことで、漢語をやまとことばに翻訳したものです。
単純な調べの中に、旅人の深い深い悲しみが伝はつてきます。
妻と二人で作つた庭園。妻の植ゑた梅の木。そしてその庭園には、杜松もあつたことでせう。さう、むろの木は旅人の邸の山斎にもあつたのです。きつと杜松とも深い思ひ出があつた。だから、旅人は鞆の浦で涙と共に歌を詠んだのでせう。確実な証拠はありません。あくまでも私の想像です。
令和四年の夏、一人鞆の浦を訪ねました。その佳景を、そして磯に根ばふ木々を見たとき、旅人の悲しみが迫り、自然と涙が溢れました。
妻を愛し、そして草木を愛した旅人の感性と情。私どもは『万葉集』を開き、彼の歌を読み、そして秋の草木に親しむ時、いにしへ人の感性と情に近付き、重なり合ふのを感じるのです。もし、読者の方で鞆の浦に行かれる際は、大伴旅人といふ人が最愛の、そして亡き妻を偲び上のやうに歌ひ涙したことを思ひ出してください。