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草木と生きた日本人 松

一、序

 門ごとに 立つる小松に かざられて 宿てふ宿に 春は来にけり
 (門前に、門松を立てて飾り付けて、家といふ家に春は来たものだナア)

 頼朝に弓馬の道を説く剛の者にして悲恋の人、西行の歌です。
 年が明けて、令和六年になりました。今年は昨年よりも心穏やかに、より平和にありたいものですね。
 まだまだ寒い日が続きますが、旧暦では正月は春です。春といへば私は「万葉集』に収められた志貴皇子の御歌、

 石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (『万葉集』巻八・一四一八)
 (石の上を走る滝のほとりにわらびが生えてくる春になつたナア)

をただちに思ひ出します。
 また中には、

 門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
 (家の門前に飾られた門松は、これから死に冥土のへ行く旅の一里塚であつて、めでたくもあるがめでたくもない)

といふ一休宗純の狂歌を連想される方もをられるでせう。まことに正月はめでたくもありますが、一休のやうにさう感じない方もをられませう。
 正月の門松は、西行の歌にあるやうに、平安時代の終はり頃には行はれてゐたさうです。
 今回は、お正月の文化である門松から、松について見て行きませう。

二、松と日本人


 まづは、『日本国語大辞典』で松について見てみませう。

 「マツ科マツ属の常緑高木の総称。樹皮は赤褐色・黒褐色または灰褐色でひびわれしてはげる。葉は針状、種類によって二本・三本・五本が短枝の上に束生する。雌雄同株。雌雄花ともに花被はなく、雌花は球状に集って新芽の頂につき、雄花序は穂状で新芽の下部に密生する。果実は多数が集って球果をなし松かさと呼ばれる。アカマツ、クロマツ、ハイマツ、チョウセンゴヨウ、ゴヨウマツなど世界中に一〇〇種ぐらいある。日本では神の依よる木として門松などにされ、古くから長寿や慶賀を表わすものとして尊ばれている。材は建築・薪炭用。雅名にあさみぐさ・いろなぐさ・おきなぐさ・おりみぐさ・くもりぐさ・ことひきぐさ・すずくれぐさ・たむけぐさ・ちえぐさ・ちよぐさ・ちよみぐさ・ときみぐさ・ときわぐさ・とちよぐさ・とわれぐさ・ねざめぐさ・はつみぐさ・はつよぐさ・ひきまぐさ・ひさみぐさ・みやこぐさ・めざましぐさ・ものみぐさ・ももぐさ・ゆうかげぐさ・ゆうみぐさなど。」

 古へから、長寿や慶賀を表はすものとして尊ばれたとあります。

 松は道徳的な意味で、私どもの先祖に尊重されました。
 大東亜戦争の戦闘が終はり、米軍に占領され、いばらの道を歩むことになつた昭和二十一年。その年の年頭に詠まれた昭和天皇の御製です。

 降り積もる み雪に耐へて 色変へぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
 (降り積もる雪の重さに耐へて、その青々とした色を変へることのない松の雄々しさのやうに、わがおほみたからもさうあつてほしい)

この御歌の中にも松は詠まれました。前に橘のお話しで紹介しましたね。
 なほ、宋の謝枋得には次の詩が伝はつてゐます。書き下しで紹介しませう(近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』講談社学術文庫を参考にしました)。

 雪中の松柏、いよいよ青々。
 綱常を扶植する、この行にあり。
 天下久しく龔勝が潔なし。
 人間なんぞ独り伯夷のみか清からん。
 義高くしてすなはち覚る生捨つるに堪ふるを。
 礼重くしてまさに知る死甚だ軽きを。
 南八男兒児つひに屈せず。
 皇天上帝眼分明。

畏くも昭和天皇の御製とこの詩の「雪中の松柏、いよいよ青々」と、似てゐる気がしませんか。両者の根底には、『論語』の「歳寒くして然る後、松柏のしぼむに後るることを知るなり」影響があることも指摘しておきます。
 松は、苦しき中にも色を変へないところから、節操の象徴として心ある人々に大切にされました。たとへば、江戸時代の儒学者・山崎闇斎の弟子である浅見絅斎は、上の詩を、その著書『靖献遺言』に謝枋得の遺言として収めてゐますし、揮毫もしてゐます。詩の意味や背景等は『靖献遺言講義』をどうかご参照ください。

三、『万葉集』と松


 このやうに、道徳的な意味で松は尊重されてゐました。
 ところで『万葉集』における松はどうでせう。私が思ひ浮かべるのは、有間皇子のことです。簡単に紹介しませう。
 有間皇子は孝徳天皇の皇子で、中大兄皇子、すなはち後の天智天皇から危険視されてゐました。斉明天皇の御代、多武峯に両槻宮の造営が行はれました。しかし、この造営は人々の反感を買ひました。そして反感をもつ人々は、有間皇子を支持するやうになりました。しかし、目立ち過ぎると殺されてしまふかも知れません。そこで有間皇子は気が狂つた振りをして斉明天皇三年(六五七年)十月に現在の和歌山県の白浜温泉にお出かけされます。
 翌年五月、斉明天皇の御孫である建皇子が崩じました。そして同年十月に斉明天皇は傷心のお慰めに白浜温泉へ行幸あそばされます。
 その間、十一月三日。有間皇子は明日香の蘇我赤兄の家に行かれました。そこで、有間皇子と赤兄は中大兄皇子の政治を批判し、ことを起こさうとされます。しかし、その計画は失敗します。
 やがて、有間皇子は白浜まで連行されました。裁判を受け、その時に次のやうに言はれたと伝はつてゐます。

 「天と赤兄と知る。吾全ら解らず」

中大兄皇子は、有間皇子を帰しました。そして、十一月十一日、藤白坂といふ所で殺されてしまひました(お自ら首をくくられたのでした)。
 有間皇子は殺される前に、十一月九日、現在の和歌山県日高郡南部町岩代で次の御歌を詠まれました。

 岩代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば またかへり見む (巻二・一四一)
 (この岩代の地の浜に生える松の枝を引き結び、願ひをかけ、もし無事であるならばまた来て見てみよう)

 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (一四二)
 (私の家にゐれば食器に盛つてご飯をいただくものだけど、草を枕にする旅にあれば椎の葉に盛る)

 二首目の御歌は絶唱として知られてゐますが、注目すべきは一首目です。「松の枝を引き結」ぶといふ行為は、何故するのかわかつてゐませんし、如何なる状態にするものなのかもわかりません。しかし、皇子は松に枝を引き結びました。そこには呪術的な意味があるのでせうか。
 そして山上憶良ら多くのうたびとが皇子を偲びました。代表的なものとして柿本人麻呂歌集の歌を見てみませう。

 後見むと 君が結べる 岩代の 小松がうれを また見けむかも (一四六)
 (無事ならば後に見やうとあなたが結んだ岩代の松の木末を、また見たでせうか)

 昨年、私は特急くろしおの車窓から、岩代の景色を見ました。そして、有間皇子の無念を感じました。古への松はすでに忘れ去られて久しく、私にも、そして誰にもわかりません。その心を次の一首にしました。

 岩代の 君が結べる 松が枝は 人は知らねど 悲しかりけり 可奈子

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