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【葛飾北斎】理想の絵を追い求め続けた絵師

葛飾北斎は日本を代表する絵師の1人です。
ゴッホやロートレックなど西洋の画家たちにも影響を与え、ジャポニズムのきっかけを作りました。
北斎に関する逸話は多く、生涯に93回も引っ越した・画号を30回も変えたなどのエピソードがあります。
北斎は売れっ子の絵師だったものの、描くこと以外には無頓着だったため裕福から程遠い暮らしをしていました。
同居していた娘の応為(お栄)も父と同じ性分で、親子そろってゴミの中で生活していたそうです。
この記事では、北斎の生き様や作品について解説します。
日本美術が好きな人は、ぜひ最後までおつきあいください。

葛飾北斎の生涯

葛飾北斎は非常に長命で、89年の生涯を全うしました。
ここでは北斎の人生を簡潔に解説します。

幼少期からデビューまで

北斎は1760年に現在の墨田区で生まれました。
幼名を「川村時太郎」といい、後に鉄蔵へ改名しています。少年時代の記録が少ないため、詳細はよくわかっていません。
後ほど詳しく述べますが、葛飾北斎という名は数ある画号のうちの1つです。この記事では便宜上「北斎」の表記を用いています。
北斎が晩年に出版した『富嶽百景』の跋文によると、絵に興味を持ったのは6歳頃だったそうです。
幕府の御用鏡師で叔父にあたる中島伊勢の養子になりますが、家督を継がずに家を出ました。
12歳頃に貸本屋で働き始め、18歳のときに浮世絵師の勝川春章に弟子入りしています。画業の基礎を学んだ北斎は「勝川春郎」を名乗り、20歳でデビューしたのでした。33、4歳頃に勝川派を離脱した後は、独自の様式を追求するようになります。

 目まぐるしく画号を変え続ける

勝川春郎の名を捨てた北斎は「俵屋宗理」の画号を使い始めました。俵屋の由来は、琳派の始祖となった俵屋宗達です。
ここから改名の歴史が幕を開け、30回にわたる画号の変遷が始まるのです。
現代人の感覚だと理解しづらいですが、当時は北斎に限らず名前を変えることが一般的でした。常に新しい境地に挑み続けた北斎にとって、改名は脱皮するために必要な儀式だったのかもしれません。
すべての画号を紹介するとキリがないため、今回はとくに有名なものを抜粋して紹介します。
【著名な画号一覧】
● 北斎辰政
● 葛飾北斎
● 戴斗
● 為一
● 画狂老人卍
「葛飾北斎」と名乗っていたのは40代の数年間のみで、50代になると「戴斗」に改名しています。
この頃に代表作の1つである《北斎漫画》を出版しました。
ちなみに彼の代名詞となった錦絵の大作《富嶽三十六景》を描いたのは齢70歳を過ぎてから。この作品の影響はかなり大きく、北斎=風景版画のイメージが定着するきっかけになったようです。
晩年に差しかかると肉筆画に没頭し、1849年に89歳で大往生を遂げました。

《桜花に鷹》について

画号でいえば為一の時代、錦絵を中心に描いていた頃の作品です。
いわゆる花鳥画の部類に含まれ、この他にも牡丹や朝顔などをモチーフにしたものがあります。北斎は花鳥画でも多数の佳作を残しており、独自の表現を確立して人気を博しました。
この作品に描かれているのは鷹狩りに使われる鷹です。
鷹狩りとは鷹を使って獲物を獲る遊びで、その起源は仁徳天皇の時代(西暦355年頃)まで遡ります。
軍事訓練や領地の視察も兼ねており、武士にとっては大事な社交の場でもありました。現代の感覚でいうと、上司の接待ゴルフに同行するようなものではないでしょうか。
貴族社会ではさほど人気がなかったようですが、武家政権が誕生した鎌倉時代以降はさかんに行われました。室町から戦国、そして江戸時代へと受け継がれていきます。
鷹狩りの愛好者として有名なのが、織田信長や徳川家康です。自らの権力を誇示するにはうってつけだったといえるでしょう。
徳川5代将軍・綱吉が発布した「生類憐みの令」の影響で一時的に中断されますが、8代将軍吉宗の治世に復活しました。
作品の解説に話を戻しましょう。
鷹の背景には美しい桜が咲き誇り、画面に華やかさを添えています。その瞳は力強く空中を見据えており、いまにも画面から飛び出してきそうですね。
北斎の鋭い観察眼が生み出した鷹は、年月を経ても色褪せずに生き生きとしています。

日本人が愛してやまない桜

花見といえば桜を愛でるものと思われがちですが、それは平安時代に突入してからです。
もともとは梅や桃の花が一般的でした。桜は神聖な樹木として扱われていたため、鑑賞の対象ではなかったのです。
鎌倉時代には現代のように桜を眺めながら宴会を楽しむようになり、今のような花見のスタイルが根付きました。
桜の名所は数え切れないほど存在し、北から南まで数多の名所があります。それだけ日本人に深く愛されている証拠ですね。
かの西行法師はこのような和歌を残しています。
「願わくは 花のもとにて春死なん その如月の 望月の頃」
願いが叶うなら桜の花の下で死にたい。
釈迦が入滅(亡くなること)した陰暦2月15日の満月の日に。
西行法師の願いは実現し、1190年の2月16日に73歳で逝去しました。
桜と日本人は切っても切れない関係にあり、和歌にもたびたび登場しています。ちなみにサクランボとは、ミザクラや桜桃になる果実です。
鑑賞用の桜にも実はなりますが、食用には適していません。同じ桜の品種に含まれるものの、まったくの別物といって差し支えないでしょう。

まとめ:絵に一生を捧げた絵師

北斎は絵を描くこと以外に関心がなく、部屋の片付けすらしませんでした。
そのためいつも散らかっており、家を汚すだけ汚しては引っ越すという生活を繰り返したのです。
周囲からすると迷惑以外の何物でもありませんが、それくらい真摯に画業と向き合っていたのでしょう。
最後に北斎の有名な言葉を紹介して終わりにします。
「あと10年、いやせめて5年生かしてほしい。そうすればまことの絵描きになれる」
素人から見ると素晴らしい腕を持っていた北斎ですが、本人は満足していませんでした。
晩年に用いた「画狂老人卍」なる画号のごとく、狂うという表現がしっくりくるほど絵に熱中していたのでしょう。
これぞプロのあるべき姿なのかもしれません。

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