草木と生きた日本人 黄葉
一、序
磯の上に 立てるむろの木 ねもころに 何か深めて 思ひそめけむ (『万葉集』巻十一・二四八八)
(磯のほとりに立つてゐるむろの木の根のやうに、ねんごろに何故こんなにも心を深くあの人を思ひ始めたのでせう)
『万葉集』に収められた名も無き民の歌。そして、磯の上むろの木。この歌は、大伴旅人の歌、
鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (巻三・四四七)
(鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、一緒に見た妻を忘れることはないでせう)
が意識されてゐませう。同じ時代においても、歌を通じた共感がありました。相会ふことなき人たちは、言葉と心でつながり合つたのでした。そして、言葉と心の共感は、しばしば草木が橋渡しの役割を果たしました。
前回は杜松(ネズ、むろのき)、そして杜松に涙した大伴旅人について見てきました。旅人の美しい感性に、何かを感じられた方もをられるのではないでせうか。
季節は十一月になり、いよいよ寒くなつてきました。あしひきの山々には、木々が黄やからくれなゐに色付き、見る人の目を楽しませてくれませう。
東京からは高尾山、関西圏ならば山辺の道(東海自然歩道)など、休日に色付く木々の美しさを楽しむ方をられませう。
二、黄葉
いにしへ人も現代人と同じやうに、色付く山と木々を楽しみました。その事実を、『万葉集』をもとに見てみませう。
まづは次の一首をお読みください。
たてもなく ぬきも定めず をとめらが 織る黄葉(もみちば)に 霜な降りそね (巻八・一五一二)
(縦糸もなく、横糸も定めず、をとめたちが織るこのもみぢの錦に、霜よ、降りないでくれ)
天武天皇の皇子、大津皇子の御歌です。当時、霜によつて黄葉が散ると見られてゐたと考へられてゐます。
大津皇子は『懐風藻』によれば、「知識は深く、見事な文章を書いた」と評されてゐます。皇子らしい巧みな、才智あふれる御歌です。この御歌は、『懐風藻』にある皇子の作られた「山機霜杼、葉錦を織らむ」といふ表現と似てゐます。
同じく天武天皇の皇子、穂積皇子にも、
今朝の朝開 雁が音聞きつ 春日山 黄葉にけらし 我が心痛し (巻八・一五一三)
(今朝の明け方に雁の声を聞きました。春日山はもみぢしてきたころでせう。しかしながら私の心は痛む)
といふ御歌があります。皇子は、黄葉した春日山を見たくて見たくて心が痛むのです。春日山は平城京の東、現在の春日大社のあたりです。
また、山部王は黄葉の散るのを惜しみ、
秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ (巻八・一五一六)
(秋の山に、黄葉した木の葉の散つて行くのは、もつと秋の景色を見たくなるでせうか)
と歌ひました。山部王は、謎の人物です。
そして、高市皇子の御子である長屋王は、
うま酒 三輪の社の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも (巻八・一五一七)
(三輪山を今を盛りと照らす秋の黄葉の散るのが惜しまれます)
と歌ひました。三輪の社は、三輪山、そして大神神社を指します(三輪の社、ではなく三輪の祝、すなはち神職と見る説もあります)。王は、藤原氏を抑へて皇親政治を推進されたことで知られてゐます。
前に記した「東国人と花」でも、黄葉にまつはる歌を紹介しました。
子持ち山 若かへるでの 黄葉つまで 寝もと吾は思ふ 汝はあどか思ふ(巻十四・三四九四)
(子持ち山の若い楓の木が黄葉するまで、一緒に寝やうと思ふけど、お前はどう思ふ)
歌中の「子持ち山」は、群馬県沼田市にある山です。「かへるで」とは楓のことです。
このやうに、黄葉はいにしへ人に愛されてきました。色付く山を見たいといふ思ひ、そして黄葉の散るのを惜しむ感性。これがいにしへ人の黄葉に対する心でした。
三、紅葉
ところで、ここまで黄葉の字を用ゐてきたことに気付いたでせうか。もちろん、誤植ではありません。
『万葉集』において、「もみち」には黄葉の字が当てられました。大和国の人々が紅葉よりも、黄色い葉を好んだといふ説もありますが、六朝から唐に至るまでの支那の漢詩文で多く「黄葉」の文字を用ゐてゐることによる影響と見る説もあります。
白居易の詩文集である『白氏文集』には、紅葉の例が多く見られます。白居易、つまり白楽天の『白氏文集』は菅原道真公をはじめ大江氏や清少納言、紫式部ら平安時代の知識階層にとつて必須の書でした。平安時代以降、黄葉が紅葉に変はるのは、必然的なものでもあつたのでせう。
ここから「百人一首」をもとに、平安時代以降の歌を見てみませう。
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに
(今回の旅は急なことなので、神様での供へものである幣の用意もできませんでした。この手向山の紅葉の錦を奉納しますので、どうか神様の御心のままにお受けください)
『古今和歌集』に収められ、「百人一首」にも録された菅原道真公のこの歌。宇多上皇の奈良御幸の際に詠まれました。手向山はどこの山と断定はできませんが、とても美しい歌です。
「百人一首」を開けば、いにしへ人が万葉の時代から変はることなく「もみち」を愛してきたかがわかります(なほ、万葉の時代は「もみち」と濁らずに読み、後世に現代のやうに「もみぢ」と濁るやうになりました)。
奥山に もみぢふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき
(奥山でもみぢを踏みわけながら鳴く鹿の声を聞くときが、とりわけて秋は悲しいものです)
謎の人物、猿丸大夫の歌です。三十六歌仙の一人で、『古今和歌集』の真名序に名前が見えますが、出自や経歴など、何もわかつてゐません。作者は、もみぢを踏み鳴く鹿の声に秋の悲しさを感じるのです。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
(小倉山の峰のもみぢ葉よ、もしお前に心があるならば、次の行幸まで散らないで待つてゐてほしい)
小倉山は京都市左京区にある紅葉の名所で、歌枕でもありました。宇多上皇の大堰川御幸の折、紅葉の美しさに感動され、醍醐天皇に行幸を進めようとの御言葉があり、そのことを奏上しますと申し上げて藤原忠平の詠んだ歌です。忠平は関白や摂政を勤め、人望がありました。
次の歌を見てみませう。
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
(山あひに流れる川がかけたしがらみは、流れやうとして流れぬ紅葉であつたよ)
平安時代前期の歌人、春道列樹の歌です。歌中のしがらみとは、川の流れを堰き止めるために杭を打ち込み柴や竹などをからませたものです。
嵐吹く 三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
(嵐が吹き、三室山のもみぢの葉を散らし、そのもみぢ葉が竜田川に浮かび、まるで錦のやうです)
永承四年(一〇四九)、内裏歌合で詠まれた能因の歌です。竜田川は奈良県生駒郡の川で歌枕、小倉山と同じく紅葉の名所でした。この歌は、在原業平の、
ちはやぶる神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
が少なからず意識されてゐるやうに感じます。
このやうに、いにしへ人はもみちの色に親しみ、その散るのを惜しみ、愛してきました。この感覚は、現代を生きる私ども異なる感覚ではありません。私どもも、秋の色付く山、そしてはかなく散るもみちに言ひやうのない悲しみを感じることでせう。
私は毎年、この時期に一人、山辺の道を歩くのを楽しみとしてゐます。雲一つない秋空の下、三輪山を照らす黄葉、巻向、穴師の木々の色付きを見るとき、いにしへ人が「心痛し」、「散らまく惜しも」と歌つた心と私の心がつながり合ふ心地がするのです。