アルフォンス・ミュシャ<椿姫>
絵画であれ何であれ、歴史に残る名作の数々は、強烈な個性のぶつかり合いから生まれてきた。
女優サラ・ベルナールのためにアルフォンス・ミュシャが手掛けたポスターの数々もその一つとして数えられる。
二人が出会った1894年、50歳のサラはすでに押しも押されぬ大女優として、国際的な名声を得ていたが、34歳のミュシャは無名のイラストレーターだった。
しかし、「偶然」をチャンスに変えることで、彼は一躍売れっ子ポスター画家となり、サラと共に「ベル・エポック」を彩る主要人物の一人として、名を残した。
今回は、ポスター〈椿姫〉を題材に、二人の「縁」の物語を紹介しよう。
①サラ・ベルナール
サラ・ベルナールは、1844年10月にパリで生まれたとされている。母は、オランダ出身のユダヤ人で帽子の売り子として働き、後には高級娼婦となったが、父親についてはほとんどわかっていない。生年月日や出生地についても諸説ある。
幼い頃に母に捨てられたサラは、叔母に育てられ、後に叔母の愛人の支援で入ったカトリック系の寄宿学校で初めて演劇を経験する。
修道女と女優、2つの進路の間で迷うも、最終的には後者を選び、14歳でコンセルヴァトワール(フランス音楽演劇学校)に入り、4年後、2番目の成績で卒業した。
卒業後はコメディ・フランセーズに入団するも、先輩とのトラブルで4年で追い出され、オデオン座と契約する。
そして1872年、『リュイ・ブラース』の女王役で、女優として初の成功を収める。作者ヴィクトル・ユゴーからは「黄金の声」と賞賛され、更にかつて追い出されたコメディ・フランセーズからは呼び戻され、その舞台に立つようになった。
以来、順調にキャリアを積み重ねた彼女は、1880年には自ら会社を設立して、ロンドンやコペンハーゲン、アメリカなどフランス国外でも興行するようになり、世界初の「国際的スター」への階段を上って行く。
そして1894年、彼女は一人の男と出会う。
②アルフォンス・ミュシャ
1894年のクリスマス、サラが経営するルネサンス座で、翌年の正月公演として、『ジスモンダ』の上演が急遽決まった。
早速ポスターを発注するも、印刷所のデザイナーのほとんどがクリスマス休暇で出払っており、たまたま校正の仕事のために残っていた無名のイラストレーターしかいなかった。
彼の名はアルフォンス・ミュシャ。
数年前に、画家を志して故郷のモラヴィア(現チェコ共和国東部)から、パリに出てきたものの、パトロンに支援を打ち切られ、雑誌などに挿絵を描くことでどうにか生計を立てていた。もちろんポスター制作の経験はない。
しかし、背に腹は変えられない。
仕事を受けたミュシャは、早速劇場に赴いてサラをスケッチし、数日後には下絵を描きあげる。
そして年が明けて後、刷り上がったポスター〈ジスモンダ〉がパリの街中に貼り出されると、たちまち大評判になった。
約2メートルの縦長の画面にビザンチン風のモザイク装飾を背に、タイトルロールの女領主に扮したサラが等身大に描き出されている。真っ直ぐに立ち、手にした棕櫚を見上げる表情は、威厳に満ち、まさに「女神」という言葉がふさわしい。
人々にとっては、サラが衣裳をまとったまま、舞台から目の前に降りてきたようにも思えただろう。
ポスターを剥がして盗む者がいたのも、無理もないだろう。
③〈椿姫〉
サラ本人も〈ジスモンダ〉を大いに気に入った。彼女は早速ミュシャと6年間の契約を結び、悲恋のヒロインから凛々しい男役まで様々な姿の自分をポスターに描かせた。
1896年には、鮮烈なデビューを飾った〈ジスモンダ〉に続く2枚目として、〈椿姫〉が制作される。
『椿姫』は、アレクサンドル・デュマ・フィスが1848年に書いた恋愛小説である。発表の翌年には作者自身の手で戯曲化された後、オペラやバレエ、映画の原作にもなった。
そのヒロインのマルグリット役は、サラの当たり役で、1880年にニューヨーク公演で初めて演じて以来、生涯で3000回演じたとも言われている。作者であるデュマ・フィスもサラを『椿姫』の最高の役者と認めていた。
そんな彼女は、1896年の公演にあたって、衣装をそれまで使っていた伝統的なものから、思い切って現代的なものにしたいと考え、そのデザインをミュシャに依頼した。
ミュシャにとってはさらなる経験を積む機会となった。
その成果が、このポスター<椿姫>にも描かれている。
薄紫色の背景に、白い清楚な衣装をまとったサラが、欄干に寄りかかるようにして横向きに立っている。髪にはヒロインのトレードマークである椿の花が飾られ、足元にも大輪の花を咲かせた椿が描き込まれている。
椿は18世紀に日本からヨーロッパに渡ったと言われている。その後、1835年にシーボルトが『日本植物誌』の中で「冬のバラ」として紹介すると、椿はヨーロッパ中でブームを引き起こした。『椿姫』もそんな背景のもとに生まれた小説だった。
このポスターでも、白い椿はヒロインの純粋な心を象徴すると共に、演じ手であるサラの気高く清楚な美しさをも引き立てている。
背景には星が散りばめられ、ロマンチックな恋物語の世界が、ここに表現されている。
サラはこのポスターを大いに気に入り、1905年のアメリカ公演の際には文字部分を差し替え、足元の椿を赤く塗るなどの調整を加えた上で、再使用している。
ポスターの仕事は、ミュシャとサラ双方に多大な利益をもたらした。
ミュシャは、パリ一番の売れっ子ポスター画家になり、自転車やクッキーなど様々な商品の広告や装飾パネルを手掛けていった。
1900年のパリ万博では、ボスニア=ヘルツェゴビナ館の装飾をはじめ、多くの部門で活躍し、勲章を授与された。
その後は、「祖国チェコのために、人生を捧げる」という新たな目標を胸に、パリを旅立って行った。
ポスターを通して更に名声を高めたサラは、1900年からは活動の幅を広げ、数本の無声映画に出演した。
1915年には、昔公演中の怪我が原因で患った骨結核のために、右足を切断しなければならなくなった。が、その後も、女優として活動を続け、1923年、映画に出演している最中に亡くなる。
二人が組んだ期間は6年と短いが、その間に生まれた作品は、今でもアール・ヌーヴォーの傑作として愛され続けている。
まさに、彼らは作品を通して、永遠の生命を得たと言って良いだろう。