【歌川広重】ジャポニズムを巻き起こした風景画の名手
歌川広重は江戸後期に活躍した絵師の1人です。とくに風景画が得意で、ときには現地へ取材に赴いて作品を描きました。
なかでも広く知られているのが《東海道五十三次》であり、江戸の旅行ブームに乗じて好評を博したのです。
知名度の高さゆえに作品のイメージが先行し、広重という人物の人生を詳しく知る人は少ないかもしれません。彼の生き様をひも解いてみると、地道な努力をしていたことが伺えます。
この記事では、広重について解説します。
日本美術に興味がある人だけでなく、江戸の歴史が好きな人も楽しめるでしょう。
歌川広重の生涯
広重といえば、日本で知らぬ者はいないであろう有名な絵師の1人です。その名は海を越えて西欧まで知れ渡り、ジャポニズムの火付け役となりました。
まずは広重の生い立ちや人生について説明します。
下級武士の子に生まれる
歌川広重は1797年に江戸で生まれました。父の安藤源右衛門は定火消同心(じょうびけしどうしん)、現在でいうところの消防署に務める役人でした。
定火消は4代将軍・徳川家綱の御代に設立された組織です。家綱の在位中に「明暦の大火」が発生し、江戸の町は焼け野原になりました。二度と同じ被害を出さぬようにと、いつでも火事に対処できる体制を整えたのが始まりです。
定火消同心は安月給だったため大半の武士が内職をしており、広重も例外ではなかったのです。13歳で両親を失った広重は父親の後を継いで同じ職に就き、「絵師と火消同心」という二足のわらじを履いていました。
広重は幼少期から絵が上手かったので、特技を生かして生活費を稼いでいたのです。
本格的に絵を学びたいと思った広重は、歌川豊広の門下生となりました。「広重」という画号は、師匠の名前と本名の「重右衛門」から一字ずつ取って名づけられたものです。後年は風景画で知られるようになった広重ですが、初期は美人画や役者絵を手がけていました。そのせいか実力を発揮できず、長い下積み時代を送ることになります。
役人を辞めて画業に専念する
1821年に同僚の娘と結婚した広重は、本業に力を入れるのかと思いきや定火消同心を辞める準備を始めます。広重は当時子どもだった叔父(祖父の子)に家督を譲り、彼が成人するまで代役として役所勤めを続けました。
これは余談ですが、広重は火消同心としても優れた功績を残しています。幕府から表彰され、のちに同心の指導的立場である与力(よりき)に任命されました。
本業で評価されていたとはいえ、広重にしてみれば生活のためにやっていたに過ぎません。着々と絵師になる道筋を整えていました。
1831年に発表した出世作《東都名所》のおかげで、広重は名所絵師としてその名を知られるようになります。翌年に定火消同心を引退、いよいよ専業絵師の道を歩み始めたのでした。
代表作《東海道五十三次》の制作が始まったのは1833年頃とされています。折しも江戸では『東海道中膝栗毛』の影響で旅行ブームが到来していました。
現代のように気軽に遠出できなかった時代では、見知らぬ土地へ憧憬の念を抱く人が多かったのでしょう。日本各地の風景画は庶民に歓迎され、広重は人気絵師の地位を確率したのです。
葛飾北斎と並ぶ人気絵師になる
広重を語るうえで欠かせないのが、同じく著名な絵師だった葛飾北斎です。彼らはライバル関係にあったといわれますが、真偽のほどはわかりません。
広重は北斎より30歳以上も年下だったため、表立って年長者を批判するとは考えにくいでしょう。しかしお互いに意識していたのは確かだと思われます。
風景画で実力を開花させた広重は、花鳥画や肉筆画などにも精力的に取り組みました。
1850年代に突入すると、江戸の町は「安政の大地震」によって甚大な被害を受けます。かつて定火消同心として町を守っていた広重は、おそらく心を傷めたのではないでしょうか。晩年に制作した《名所江戸百景》は、震災を経て復興していく江戸の様子を描いたとされています。
広重は1858年に62歳で逝去しました。流行り病のコレラで亡くなったとする説が有力ですが、真相は定かではありません。
《東海道五十三次》の魅力
《東海道五十三次》は、広重の代名詞といっても過言ではない作品です。
そもそも東海道とは、徳川家康が整備した五街道(江戸を起点とする幹線道路)の1つでした。東海道沿いには53の宿場を結ぶ駅があり、それらを「次」と呼んだのです。
今回紹介するのは、43番目に位置する四日市宿を描いた一枚。現在の三重県四日市市です。大矢知から内部間を通るルートで、幕府の直轄地でした。多くの人々が行き交う宿場町ゆえに賑わっており、旅籠や茶屋などが軒を連ねていました。
画面の中央付近に配置された柳の様子から、強い風が吹いているとわかります。漫画の一幕を思わせる描写で、笠を飛ばされた旅人のセリフが聞こえてきそうですね。奥の人物の表情は伺えないものの、それがまた鑑賞者の想像力を掻き立てる要素となっています。
この絵ではあまり目立ちませんが、広重の特徴である青色にも注目してみてください。通称「ヒロシゲブルー」と呼ばれたベロ藍は、その鮮やかさで海外の人々を虜にしました。
このベロ藍は実はドイツ生まれで、オランダを経由して日本に持ち込まれています。日本固有の濃い藍色と混ぜることで独特な色合いになり、逆輸入される形で海外に広まったのです。
日本人と柳
柳と一口にまとめても種類があり、一般的にはシダレヤナギを思い浮かべる人が多いかもしれません。葉が上を向いている品種もあり、こちらは「楊」と書きます。
シダレヤナギは湿り気のある土壌を好むため、水辺に植えられていることが多いですね。その歴史は意外に長く、奈良時代から植栽されてきました。北海道から沖縄に至るまで、各地の公園や川べりなどで見られます。
怪談話「置いてけぼり」にも登場する柳には、古くから幽霊が出る木というイメージが定着していました。その原型は江戸時代に出版された読み物「絵本百物語」に掲載された柳女にあるとされています。
柳にはもともと霊が宿るという言い伝えがありました。細長い枝葉が風に揺れる様子は、確かに幽霊を想起させます。昔は街灯がなく夜道が暗かったため、不気味な雰囲気が漂っていたのでしょう。
まとめ:実は苦労人だった歌川広重
広重は著名な絵師でしたが、彼ほどの人気絵師でさえ生計を立てるのに苦労していました。晩年になるまで借金の返済に追われ、裕福とは程遠い暮らしぶりだったのです。
広重は少年時代に相次いで両親を亡くし、生活のために役所勤めをしつつ絵を描き続けました。そう簡単に稼げるほど甘くないと覚悟して専業の絵師になったのでしょう。経済的に苦しかったのは想像に難くありませんが、広重にとっては幸せだったのかもしれません。
今回ご紹介した《東海道五十三次》は全体のごく一部です。江戸時代の人間になった気分で作品を鑑賞するのも一興でしょう。機会があればぜひ全てに目を通してみてください。