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樹木図鑑 その⑧ アカマツ 〜前を向こう、未来は変わる〜

僕の地元の兵庫県神戸市は、「山が近い街」として有名。三宮の繁華街から1kmも歩けば、そこそこの奥行きがある六甲山地に入り込んでしまいます。急峻な山と海とのあいだの狭い裾野に、70万の人口を擁する市街地が挟み込まれている例は、世界的に見ても珍しいんだとか。
そういう特性を持つ街ですから、神戸に住めば毎日のように六甲の山並みを眺めることになります。僕が通っていた中学校の部室からは、ムクノキやシラカシ、アラカシが入り混じった六甲南斜面の森が遠望できたのですが、それをぼんやりと観察するのが、日々の密かな楽しみでした。

神戸の中心街の裏山・市章山からの景色。三宮近辺の市街地は特に幅が狭く、海から山まで2kmほどしか無い。山中に棲むイノシシが、川を伝って神戸港まで辿り着き、海を泳いでいた…
なんてニュースもあった。

海と、坂まみれの市街地と、その背後を固める山稜、という神戸独特の立体的な地勢は、平安時代末期に大輪田の泊(神戸港の前身)の大開発が行われて以来変わっていません。
平安時代に兵庫の津に出入りしていた宋の商人たちも、江戸時代に西国街道を往来していた武士たちも、明治初期に神戸港の居留地に滞在していた外国の領事たちも、皆いま自分が見ているのと同じ、緑濃い六甲山を見ていたんだろうなあ。中学生の頃の僕は、山を眺めながらそんな歴史ロマンに浸っていたのです。典型的な厨二病。
しかし数年後。僕はこの”歴史ロマン”が単なる妄想だったことに気づかされます。きっかけは、今回の主役であるアカマツとの出会いでした。

山の景色は、常に移り変わる

六甲山地の姿は、昔から神戸の風景を題材にした絵図に、必ずと言って良いほど描かれてきました。それらの絵図と、現在の六甲の山並みを見比べると、ある違和感に気がつきます。

江戸時代に書かれた布引の滝の版画。(六渓写之「摂州布引瀧図」https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/088.html より引用)

上の絵図は、江戸時代後期(正確な年は不明)に製作されたとされる絵図で、描かれているのは生田川上流の布引の滝。滝の両脇の森に生えているのは、専らアカマツです。
時代は変わって現在。下の写真は、絵図に描かれている山を東側から撮ったものですが、アカマツは全く写っていません。斜面を覆う森に生えているのは、アラカシやクヌギなどの広葉樹です。

2022年春の、布引の滝付近の森。
森に生えているのは広葉樹ばかりで、アカマツは全くと言って良いほど見られない。

同様の変化は、六甲山全域で起こっていました。下の絵図は六甲山全体を俯瞰したもので、製作年は1736年ですが、山に生えているのはやはりアカマツ。広葉樹林で覆われた現在の六甲山とは、似ても似つきません。
六甲山の景観は、過去数百年間でガラリと変化しているのです。広葉樹林に覆われた六甲山を、麓の市街地から仰ぎ見れた時代は、1000年近い神戸の歴史のうち直近のわずか70年ほど。それ以前の六甲山には、広大なアカマツ林か、禿山が広がっていたのです。
つまり、令和時代の僕が見ている六甲山と、明治、江戸、平安の人々が見ていた六甲山は、それぞれ全くの別物である、ということ。

六甲山を南側から見た絵図。山はアカマツに覆われている。(作者不詳「海道名所記」https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/034.html?list=1&pos=ka より引用)

六甲山にアカマツ林が多かった理由

六甲山の森は、大都市に近接しているため、昔から人間活動の影響を強く受けてきました。
平安末期の神戸に福原京が置かれた際には、六甲山から大量の木が伐り出されて都市建設に使われましたし、戦国時代には六甲山中で数多の戦が繰り広げられ、森の大半が焼けてしまいました。江戸時代〜明治時代にかけては、六甲山の森が薪炭林として利用されていたのですが、いかんせん周辺地域の人口が多いため、過度な伐採が起こりがちでした。そういう場所は、半ば”はげ山”に近い様相を呈していたそうです。
六甲山の森の歴史は、人間による”植生剥奪”の連続なのです。

明治時代中期の六甲山。度重なる植生破壊によって、はげ山になっている。この頃神戸港を訪れた牧野富太郎は、六甲山の有様に「雪でも積もっているのかと思った」という、驚きと呆れの言葉を残している 。(https://www.hitohaku.jp/publication/newspaper/43/hm41-2.htmlより引用)

森には自然回復力が備わっているため、植生が大きく破壊されたとしても、通常であればその後数十年で元に戻ります。周囲の森から種が飛んできたり、土に埋まっていた種子が発芽したりして、瞬時に植生が復活するのです。

2018年の西日本豪雨による土砂崩れで、森が一掃された土地。
その4年後の2022年、早くもパイオニア樹種のオオバヤシャブシやタラノキ、
カラスザンショウが森をつくりはじめている。森の回復の現場。

しかし六甲山のように、幾度にもわたって度が過ぎた植生破壊が行われた土地では、森の回復力そのものが消失してしまいます。こうなると、元の植生の回復は見込めません。
その土地は、地表の湿度を保つ枝葉と、土壌を固定する植物の根を失うことになり、乾燥化と土壌流失がはじまります。

人間による植生収奪のスピードが、森の回復スピードを超えると、土地そのものが劣化していく。

ひとたび植生のカバーが取り外されると、そこの地力は大幅に低下し、とてつもないスピードで森の歴史が逆行してしまうのです。そして土地そのものが劣化し、植生の回復がさらに難しくなっていく…。明治時代以前の六甲山では、こういった悪循環が起こっていたのです。

すらっとした幹を伸ばすアカマツの成木。岩手県田野畑村にて。

そんな中でも森を作ることができる、タフな樹種。それがアカマツでした。
彼は、自然条件下では尾根筋や岩場など、樹木の生育には厳しい土地で生育します。それゆえ、極端な痩せ地にも耐えることができる。
土壌が流失し、乾燥した山肌が剥き出しになった六甲山の斜面は、アカマツにとってはむしろ最適の生育環境だったのです。
明治以前の絵図に描かれていた広大なアカマツ林は、半ば人間によって作り出されたものであると言えます。

尾根筋の岩場に生育するアカマツ。
六甲山の尾根筋を通過するハイキングコースでは、頻繁にアカマツをみかける。

コネって大事

アカマツが、他の樹種にはできないようなタフな生き方ができる理由は、彼自身が独自の”ツテ”を持っているため。彼は、優秀かつ頼りがいのある”支援者”とタッグを組んで、痩せ地で森を作っているのです。その支援者とは、「菌根菌」と呼ばれる菌類。

夕焼けに染まるアカマツの幹。もともと赤っぽい幹が、さらに鮮やかに光る。
岩手県田野畑村にて。

菌根菌は、菌糸と呼ばれる糸状の構造物を土壌中に張り巡らせて、代謝に必要な物質を取り込んでいます。この菌糸は、樹木の根が入っていけないような細かな隙間にも容易に潜り込めるため、無機栄養分(窒素、リン、カリウム、鉄)や水を効率よく吸収できます。
しかし彼らは葉緑体を持たないため、糖類を自給することはできません。
一方のアカマツは、ご存知の通り光合成が本職。糖類は有り余るほど生産することができますが、極太な根を持つためか、水や無機栄養分を吸収するのは正直チョット苦手。
アカマツと菌根菌の得意不得意は、お互いうまい具合に噛み合っているのです。いつしか両者は、栄養分を交換し合う間柄になりました。

アカマツと菌根菌の共生関係。菌根は、栄養分の交換のハブとしての役割だけでなく、
アカマツの根を包み込み、土壌中の病原菌が根に感染することを防ぐ役割も担っている。

アカマツの根の先端部は、菌根(菌根菌の菌糸と、植物の根の組織が合体して構成されたもの)と呼ばれる構造体で包まれています。ここを通して、アカマツが生産した糖類は菌糸へ、菌根菌が吸収した無機栄養分と水はアカマツの根へと転送されます。お互いに不足を補い合う、完璧なフェアトレード。
アカマツが痩せ地で繁栄できるのは、菌根菌のバックアップのおかげなのです。

アカマツの葉。2本の針葉が束になってつき、芽は赤っぽい。兵庫県神戸市再度山公園にて。

アカマツは、とにかく群れたがる樹種で、単独で生育することは殆どありません。大抵は、数百本単位で固まって生育して、大きな純林(一種類の樹木だけで構成された森)をつくります。
この理由には、菌根菌とアカマツ間の”決済方式”が関係しています。

岩手県の三陸地方には、アカマツ林が多い。
スギが育ちにくい気候のため、積極的に植林がすすめられたそう。岩手県田野畑村にて。

アカマツは、菌根菌から無機栄養分を受け取るかわりに、自分が作った糖分を”対価”として支払っているわけですが、このときの決済はアカマツ1個体単位では行われず、森全体で行われます。
アカマツ林の地下には、網の目のような菌根のネットワークが広がっていて、1本1本のアカマツの根は、皆地下の菌根を介して繋がっています。逆に言えば、1つのでっかい菌根ネットワークに、数百本のアカマツの根が接続している。
つまり森のアカマツたちは、みんなで"割り勘"をして、巨大な菌根菌に糖類を支払っているのです。これは一体なぜなのか。

道路の法面に群れて生育するアカマツたち。奈良県宇陀市にて。

1本1本のアカマツが、それぞれ別々の菌根菌と契約する方式だと、糖分を支払う能力が無い幼木は菌根菌からのサービスを受けられません。
しかし、数百本の大人アカマツが共同で糖分を負担すれば、大手の巨大な菌根菌と契約することができ、菌根ネットワークのキャパにも余裕が生まれます。幼木のアカマツは、そこに根を接続させるだけで無機栄養分を受け取ることができる。
要は、先輩アカマツが一丸となって、発芽して間もない後輩アカマツに栄養分を奢ってあげているのです。

アカマツが群れて生育する理由。

アカマツ林というのは、例えると大学のサークルのようなコミュニティだと思います。
新入生歓迎会で、サークルのメンバーそれぞれが別々の居酒屋を予約して、勘定もバラバラ、なんてことはまず無いでしょう。上級生も新入生も、メンバー全員で一つの卓を囲む。そんで会計の際は上級生だけで割り勘をして、新入生の飲み代まで払ってやる…というケースも多いはず。このとき先輩にご馳走してもらった新入生は、来年後輩ができたときに同じことをするのです。
こういう飲み会で、一人あたりの飲み代を減らすには、やっぱり大人数で集まるのが一番。
アカマツが群れているのは、1個体あたりの糖分負担量を減らしつつ、できる限り大きな菌根ネットワークを運用し、幼木にメシを奢ってやるためなのです。
菌根菌や、同世代の樹、先輩、後輩とのコネを大事にする。これが、痩せ地で生きていくときの鉄則なのです。

京都御所のアカマツ。日本庭園向きの樹形に仕立てられている。
アカマツは、クロマツと並んで、昔から日本庭園の主要構成樹種として庭師から重宝されていた。

土地の未来が好転したことの証

六甲山の例からわかるように、アカマツ林は、過度な森林破壊で土壌が劣化してしまった場所で発達します。
実は六甲山に限らず、近代以前の日本では、各地で広大なアカマツ林が形成されていました。19世紀初め頃に描かれた「東海道中五十三次」を見ると、当時の街道はアカマツの木立に囲まれていたことがわかります。絵で見る分には、なんとも美しい光景ですが、これは”アカマツしか生育できないほどに”山が荒れていたことの証明でもあります。

現在の静岡県島田市・金谷峠の東海道。現在この場所には、東海道の後を継いだ国道1号が通っているが、その脇の山はツブラジイの森で覆われている。この絵が描かれてから現在に至るまでの200年間で、植生がガラリと変化しているのである。(歌川広重「東海道中五十三次」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanaya_Reisho_Tokaido.jpgより引用)

日本は、世界でも有数の植生豊かな土地。それゆえ、古来から人々の生活は森の利用を前提に組み立てられていました。都市の建築物はもちろん木で造られましたし、燃料も木、日用品も木製のものが大半。生活の中で、樹の遺骸を用いるシーンを挙げたら、きりがありません。
そういう社会が、世界トップクラスの人口過密地帯で形成されていたのですから、有史以来日本の森は強い利用圧を受けてきました。森の資源の需要が、森の自然回復力を上回り、「植生の強奪」のようなことが行われてしまうケースも少なくありませんでした。前述の六甲山がその好例です。

滋賀県大津市の田上山(たなかみやま)。1000年前は、ヒノキの大木が生い茂った深い森で覆われていたそうだが、東大寺建設の際に過度な伐採が行われた結果、森の土壌が流出。
それ以降、森の回復はほとんど進んでおらず、いまでも田上山ははげ山に近い様相を呈している。

人間からの旺盛な需要に数百年以上も晒されてしまえば、どんなに豊かな植生もガラリと姿を変えてしまいます。2000年前、日本列島の西半分を覆っていたシイやカシの原生林は、たちまちコナラやクヌギの二次林に姿を変え、その二次林すらも伐採とそれに続く乾燥化によって禿山へと変貌してしまいました。本来であれば、より安定した方向へと進んでいくはずの植生遷移が逆再生され、荒涼とした裸地が各地で出現したのです。

老齢のアカマツの樹形。傘を広げたようなフォルムが印象的。

森の歴史が逆行すると、当然ながら人間の側も強いしっぺ返しを食らうことになります。
例えば、飛鳥時代〜奈良時代にかけての大和盆地では、洪水や疫病の流行が頻発していたのですが、その根本的な原因は森林破壊でした。
都の建造の際、近江や吉野、伊賀の山々で大量の樹が伐り出された結果、山の保水力が低下して、大和盆地の都近くで河川が氾濫したのです。滞水した街中では衛生状態も悪化し、追い討ちをかけるようにして疫病が発生しました。西暦730年代に平城京内で天然痘が蔓延した際には、貴族や役人までもが病に倒れ、朝廷の機能が一時的に停止したこともあったそうで、事態の深刻さが窺えます。

アカマツの人工林。岩手県田野畑村にて。

「天災は邪霊や悪神によって引き起こされる」と信じられていた時代ですから、迫り来る疫病や水害の脅威に対して、人々はただ祈ることぐらいしかできませんでした。盆地を取り巻く真っ白い禿山は、雨が降ると牙を剥く恐怖の存在。森はとうの昔に伐り払われてしまったので、都に押し寄せる泥流を止める術もありません…。
そんな中で現れた救世主が、アカマツでした。
荒れ果てた山の斜面で、菌根菌とタッグを組みながら、大軍団を編成して森を再生させてゆく…。人間が森の遷移を逆行させてしまった責任を肩代わりするようにして、禿山を眩しい緑で塗り上げていく姿は、相次ぐ天災でやるせない思いを抱えていた人々の心を強く打ちました。

砂利だらけの駐車場跡地で森を作り始めるアカマツ。
どんなに複雑な原生林も、最初はアカマツの苗木の群生から始まる(地域によりますが)。
青森県青森市にて。

どうしようもない未来しか待っていないような禿山で、痩せた土壌も気にせずに枝葉を茂らせ、遷移を正しい方向へと再発進させる。こんなことができる樹はそう多くありません。
ゆっくりではあるけれど、確実に、土地の未来が好転し始めている……。人々にそんな希望を抱かせるほどのエネルギーと生命力が、アカマツの森には宿っているのです。

松の枝は、古くから縁起物として親しまれてきた。門松がおなじみ。
これも、マツが持つ神秘性、生命力の強さによるもの。

逞しい生き様を貫くアカマツに対して、古代の人々は神秘的な力の存在を見出していました。そしていつしか、こんな伝承が生まれました。
「あの樹には、天界から神が降臨する。だから彼らは、荒地で枝葉を茂らすことができるのだ。彼らは、神が舞い降りてくるのを、葉を広げながらひたすら”待って”いるのだ…」
これが、「マツ」という樹種名の由来になった、とされています(諸説あり)。

アカマツの若木。特殊なホルモンの影響で、主幹が他の枝と比較して著しく早く成長する。
六甲山にて。

アカマツの生涯の終着点

時代は変わって、現在。六甲山には、かつての禿山とは似ても似つかない緑濃い照葉樹林が広がっています。10分ほどのハイキングで、数十種の樹木が観察できる植生豊かな森。150年前にここが荒れ果てた裸地だったとはとても思えません。
アカマツが導く"好転した未来"というのが、まさに今、私たちのもとに訪れているのです。
かつて神戸の街のどこからでも見えたはずのアカマツ林は、今や尾根筋に点在するのみ。人間が逆行させた森の歴史が、極相に近い位置まで戻りつつあるいま、彼らの役目はもう終わったのでしょう。

朽ちたアカマツの古木。六甲山では1970年代、松枯れが蔓延し、
アカマツの大木はその個体数を大きく減らした。

六甲山中腹の森を歩いていると、時々朽ちたアカマツの古木を見かけます。遷移が進んでいるのか、周囲に生えているのは広葉樹のみ。生きたアカマツはもう居ません。”好転した未来”を導きだした張本人は、その未来に行き着くことなく寿命を迎えてしまう。なんとも切ない話ですが、それが遷移というものです。

遷移が進むアカマツ林。高木層はまだアカマツで占められているが、低木層にアカマツの若木の姿は無い。すでに落葉広葉樹が進出し始めている。兵庫県神戸市北区にて。

突然断ち切られ、逆行してしまった森の歴史を未来へと縫い付け、山を蘇らせる…。そんな偉業を成し遂げたアカマツも、寿命を全うすればあっという間に土に還ってしまう。そして、彼らが生きた証は時間と共に薄まっていき、やがて消えてしまうのです。
樹の生涯は、いつもそんな風にして終わっていくのです。
鬱蒼とした広葉樹林の中で、悲しげに佇むアカマツの朽木を眺めていると、なんだか寂しい気持ちになってきます。でもこれは、僕が人間の時間軸で生きているからなのでしょう。
数十年後か、数百年後か、それは分かりませんが、いつか必ず、六甲山の森では大きな撹乱が起こります。いまは尾根筋で待機しているアカマツたちも、その際にはまた、山の斜面に種子を飛ばし、森を再生させてくれるのでしょう。
アカマツよ、そのときはまた、よろしく頼みます。


<アカマツ 基本データ>
学名 Pinus densiflora
マツ科マツ属
常緑針葉樹
分布 本州、四国、九州
樹高 25m
漢字表記 赤松
別名 メマツ
英名 Japanese Red Pine

<参考文献>
・社団法人土地防災研究所(2006)”六甲山の緑の歴史”https://www.sabopc.or.jp/images/rokko.pdf
 ・奥入瀬フィールドミュージアム(2019)”森を繁栄させる菌根ネットワークというシステム”https://oirase-fm.com/notes/naturalist/page/8/
・明間民央のページ(n.d.)”菌根とは”http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/mic/akema/mycorrhiza/mycorrhiza.html
・Takeshi Nakayama(2005)”菌根”https://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/mycorryhiza.html
・谷口武史(2011)”菌根菌との相互作用が作り出す森の種多様性”https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010815106.pdf
 ・丸山岩三(n.d.)”奈良時代の奈良盆地とその周辺諸国の森林状態の変化”https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/39/2/39_85/_pdf
 ・栖原 纏(2015)”神々と植物 神が宿り、穢れを祓う草木”
・吉川賢(2022)”森林に何が起きているのか”
・田中淳夫(2014)”森と日本人の1500年”



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