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【小説】『嬢ちゃん/22歳元風俗嬢、底辺高校の教師やります 』19

 赤井海月の退学から数日が経った。
 目が回る忙しさだった4月も下旬に入っている。ゴールデンウィークには部活の指導もあるが、それも一日中というわけではない。連休が来たら、少しは授業の準備を進めて未来のあたしを助けたいところだ。

 最寄り駅で、赤井海月に声をかけられたのはそんな時期だった。
 あたしは、自宅の最寄り駅で生徒に遭遇するとは思っておらず、海月に気付いていなかった。
「あっ、先生。」
 声をかけられて、初めて海月を認めた。
 あたしが教員になったこの4月、彼女はあたしがいちばん言葉を交わした生徒だったかも知れない。でも、彼女はもう生徒ではなくなってしまった。

 4月も後半だが、今日は日中でもコートが欲しくなるような曇天の一日だった。日も落ちて、ロータリーには寒風が行き過ぎる。駅前を通る人々はみんな上着の前を合わせて足早に家路を急いでいた。
 そんな中、海月はコートも持たず、辞めてしまった学校のブレザーとスカートを身に着けていた。そこに、なぜかカバンだけはブランド品を持っている。
 パパ活で得た金で買ったか、パパに直接もらったか。高級なカバンは高校の制服とは釣り合いが取れず、ある種異様な雰囲気を醸し出している。

「学校、辞めちゃったんでしょ? 話だけは聞いたよ。」
 あたしはそんなふうに海月に話しかけて、彼女の反省文の添削を何度もやったことを思い出した。
「せっかく一緒に反省文も完成させたのに。なんで反省期間に同じことをやっちゃったの?」
 海月は、売春行為を反省しているはずの期間に、さらに売春行為に及んだ。それが退学の直接のきっかけになったわけだ。あたしは疑問に思っていたことをそのまま聞いたのである。すると、海月は笑顔を見せた。
「まあ、やっぱり反省してなかったってことかな。」
「なにそれ。」
「売春の何がダメなのか、正直、まだよくわかってない。
 あと、もう今の生活が嫌になったの。お母さんと一緒にいるのが。」
 ロータリーを走るタクシーに目をやった、海月の表情は真剣なものだった。彼女は続けた。
「もう、あの人にはうんざりした。自分で生きていく。
 家も追い出されたし、戻ってくるなって言われた。そうしようと思う。」
 海月の誕生日は4月の頭で、もう18歳になっている。児童相談所を頼ることもできないはずだ。高校を退学した彼女は、要するに無職の成人なのだ。育児放棄、ネグレクトと言うのも難しい……ような気がする。

 さて、どうしたものか。
 海月を眺めてみると、意外にもスカートの長さが膝まである。化粧も、以前あたしが教えた通り、引き算をしない最低限の化粧をしている。駅前で、あたしが海月に気付かなかったのは彼女が「普通の高校生」として周囲に溶け込んでいたからなのに違いない。あたしは、とりあえずそれを話してみることにした。
「スカート長いじゃない? 化粧もいいと思う。どうしたの?」
「先生の話はちゃんと聞いてたんだよ。偉い?」
 口調は冗談のように言っているが、海月はあたしの機嫌を伺うような、すがるような目をした。ほめて欲しいんだな、と思った。
「うん。偉い。偉い偉い。ちゃんとあたしの言うこと聞いてたんだね。きちんとしたお嬢さんに見えるよ。
 でも、カバンだけ、なんでブランド品なの?」
「いや、これはあたしの貴重な財産だからさあ。」
 海月はブランドのバッグを抱えるようにして笑った。

 あまり認めたくはないのだが、あたしと海月は会話のリズムが合う。
 あたし達は顔も似ている。通りすがりの人にあたし達の関係を予想させてみたら、八割は「姉妹」と回答するに違いない。

 少し、会話が楽しくなってきてしまっていたあたしは、「あまり深入りしないようにしよう」と考えた。
 会話を切り上げるつもりで、あたしは「これからどうするの?」と聞いた。

「たすけて。」

 海月はいきなりあたしの上着の肘のあたりを掴んだ。
 この、妹みたいな元生徒は、あたしの心の弱点をつくのが上手い。
 あたしはあたしの持病、「求められたい病」の中心に近いところを突然に刺激されて、一瞬間は呼吸もできなくなった。必死な顔で「たすけて」なんて頼られたら、助けたくなってしまう。

「行くところがないの。ごはんも食べてない。どうしたらいいのかわからない。」
 あたしが見ている前で、言葉の後半で海月はみるみる目に涙をあふれさせた。
 あたしは、こういうのに物凄く弱い。海月が涙を流すから、あたしまで涙が出てきた。
「つらかったね。もうだいじょうぶ。」
 あれ? あたしは何を言っているのかな。

 駅前には大きな商業施設もある。あたしはその中で海月を連れ回し、下着と部屋着を何着か手に入れた。歯ブラシ、タオル、コップ等の日用品も入手する。忘れているものもあるだろうが、それは気がついたときに追って手に入れよう。
 さまざまに買い集めながら「誘拐にならないよね……?」と、自問自答した。
 海月は成人だ。それが自分の足でついてきているのだし、家に帰れない彼女をいまあたしが放り出したら、それこそ犯罪の呼び水になる。そんなふうに自分を正当化した。

「泊めてくれるの!?」
 荷物を抱えた海月はなんだか「お泊まり会」くらいの感覚で考えていそうである。気軽に、ずっと居座られてはたまらない。海月がいることで安藤との密会ができなくなったら、それはまったく不本意なことだ。

「ずっとじゃないよ。長くても一週間。
 鍵も渡さないよ。あたしが家を空けるときは一緒に家を出て。いい?」
「はーい!」
 なんだか軽いんだよなあ。
 と、思いながらもあたしは彼女を連れて、玄関の内側へ入ってしまった。

 18歳、数日前まで女子高校生だった元生徒を家に連れ込んだ。
 なんだか、とてもいけないことをしている気持ちになる。これ、本当にだいじょうぶかな。


つづく

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