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未完の美

イチロー氏米国の野球殿堂入り会見に見る、満票選出ならずも「1票足りないのは凄く良かった」「不完全であるのはいいな」の想いと日本の美意識の一考

「わびさび」の概念は、中国の宋王朝(960〜1279年)の時代に道教から生まれ、禅仏教に取り込まれた。そもそもは、禁欲的かつ控えめに美を愛でる方法として捉えられていた。

現代では、はかなさや自然、哀愁を、もっと緩やかに愛でる鑑賞法となり、建物から陶器、生け花に至るまであらゆるものについて、不完全で不十分な姿を良しとしている。

「侘(わび)」は、「つつましく簡素なものの優美」を意味すし「寂(さび)」は、「時間の経過とそれに伴う劣化」を意味する。この2つが組み合わさり、日本文化に極めて重要な、独自の感覚が作られた。しかし、言葉は理解の妨げになると仏僧が信じたのと同じように、この説明は「わびさび」の表面をかすめるくらいしかできない。

わびさびを理解する入り口には、古いわび茶の作法(15世紀末から16世紀に茶人の村田珠光と千利休が完成させた茶の湯の道)が適していると提案する。当時人気だった(そして技術的に非の打ち所がない)中国からの輸入陶器ではなく、ありふれた日本の陶器を選ぶことで、2人はそれまでの美の決まりごとに挑んだ。それまでは美しいものと言えば、鮮やかな色彩や凝った装飾がつきものだった。その分かりやすい手がかりがないものを前に、茶席の客人は、華やかな器では目に入らなかった繊細な色調や手触りをじっくり味わうよう、促された。


【不十分が想像力を刺激】                         わびさびは、物事を未完成や不十分なままで終わらせる。そこに、想像力が入り込む余地が生まれる――と

【未完成の美こそ日本の美学 日光東照宮「逆柱」】
日本建築には、知らなければ「あれ?」と感じるような不思議な建築物がいくつも存在しています。その一つが日光東照宮の「逆柱」です。

 日光東照宮の陽明門は、12本ある柱のうちの1本だけ彫刻の模様が逆向きになっている逆柱となっていることで有名です。

 本来逆柱は、木材を建物の柱にする際、木が本来生えていた方向と上下逆にして柱を立てることを指しますが、日本の木造建築の世界では妖怪を呼んだり家に災いを呼び込んだりする縁起の悪いものとしてとらえられていました。そのようなものを、なぜ当時の宮大工は、日光東照宮のような由緒ただしい建物に使ったのでしょうか。

 それは、日本に古くからある「未完の美」という独特の感性によるものだと考えられています。鎌倉時代に兼好法師が書いた徒然草の中でも「すべて、何も皆、事のととのほりたるは悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。」という一文が出てきますが、これは、「何事においても完璧に整っているものはよくない。やり残しがあった方が味わい深く、廃れずに残っていくものなのだ。」という内容で、完全なものは決して良くはないと唱えられ、「内裏を造る時も、必ず1か所は造り残しをする」と書かれています。

 日光東照宮の逆柱も、逆柱というものをあえて用いて、完璧な建物を完成させないことで、未完成であることを重視したのでしょう。

 「未完の美」の考え方の根底には、「完璧なものは、神の技である」という日本人の中にある信仰も深くかかわっています。神の領域に人が立ち入ることは、タブーとされていました。あまりにも東照宮が立派であったためか、こういった逆柱というひとつの瑕疵をつくることによって、神ではなく人が造ったことをわざと証明したのだと考えられています。

 また、日本人の完成させない美学が転じ、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という言い伝えも生まれました。東照宮の宮大工は、この言い伝えを逆手にとり、あえて柱をこのように本来の完璧な状態ではない形にすることで災いをさけるという、いわば魔除けのために逆柱にしたとも考えられています。

【「建物を完成させなければ永久に崩壊はしない、そうでありますように」】という、手掛けた建物の長寿を願っての、いわばお守りのようなものです。

お茶であれ、建築であれ、日本人の思考の先にある「完全や完璧」を求めないと云うその本質とは?と云う問いに、本当の美は、心の中で未完成なものを完成させようとする者によってのみ、発見されるべきもの、との先人の遺訓がDNAの何処かに刷り込まれてでもいるように、イチロー氏の口から言わしめてでもいるかの如く、日本人の中に在るのだろう。

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