価値観が転換した2021年:生命主義と合理性の放棄
2021年は変化の年
今は研究に主軸を置いているとはいえ、現在でも病院で脳と命を救うのは私の仕事の一つだ。その二つ、脳と命に絞っても今までとは180度異なる価「気づき」に出会い、自分の価値観が大きく転換する事となったので書き残そうと思う。
2021年は多くの人にとってターニングポイントの年になったと振り返られることになるだろう。2020年はパンデミックが世界に広がり、パニックと混沌、そして今までの秩序の破壊の年だったのに対し、2021年はまだ混乱こそ残るが、新しい秩序が再構築されていく様をみんなが第一線で眺めることができる年だった。まだニューノーマルーあるいは別の名では妥協とも呼ぶーは完全には固定された訳ではないけれど、どこに向かっていくのか、どこが落とし所なのかは、精度の差はどうであれ、大体見えてきたのが2021年だ。
善悪いずれの形でも、非常事態宣言は多くの人のライフスタイルを変えた。それはもうすでに起こったことだから仕方がない。ただ、自分が人生の岐路に立つくらいには若い年齢の時に、世界が一変する様をリアルタイムで経験できたのは、すごくラッキーだったと思う。人生が固定したあとでこの変化についていくより、変化しうる世界を織り込んで人生設計する方がやりやすい。
もちろん、アラサーよりハタチ、ハタチよりティーン、あるいは小学生の方がもっと上手に適応しているだろう。けど、若さにはそれだけで無限の価値がある。例えば高校や大学でどれだけ詰んだ状況に思えても、いくらでも挽回できることを知っている。だから残りの人生のどの時点から振り返ろうと「今」は可能性に満ちていると思う事はできる。だから今年自分が感じた変化をこうやって書き記して、後から振り返ることができるようにしておこう。これを読む人のほぼ全てと同様に、自分にとってもまた2021年は価値観の大きな転換のあった年だったし、おそらくこの考え方はすでに広まっている、あるいはこれから広まっていくんじゃないかと思う。
賢さは本当に必要か
賢さにも色々ある。雪の日に主君の草履を温めるのも、泣いている人にそっとハンカチを渡すのも一つの賢さだろうが、ここではもっと限定的な、合理的思考に絞って書く。具体的には例えば買い物をする際に、より強度があり安全な材質のものを選んだり、自分の入ってる保険を取捨選択し整理したりする作業を想定したらいいだろう。もっと露骨な例でいえば、マルチの勧誘をマルチと見抜いたり、怪しい技術を使った通販グッズを騙されて買うことがないことなども含めて良いだろう。そうやって賢くあること、そしてその賢さにより正しい選択や判断を続けていくことは一見正しいことであるとされている。しかし、本当にそうだろうか。
人間は、賢く生きるために生まれてきたのではない。少なくとも、状態方程式や液相平衡を念頭に置いてキッチングッズを正しく選んだり、経済学の知識を活かして金融商品を選んだりするために生まれてきたのではない。こうやって文章に書くと当たり前のことだけど、私は長らくこのことを忘れていた。人が生まれてきた理由を厳密に定義するのは個人差が大きすぎるけど、
「幸せになるために生まれてきた」というのは大方の人にとって共通する解釈として問題はないだろう。だとすると、幸福である事が主であり、賢く生きる事は従である。賢さは、幸福であるための手段以上の役割を持たない。
現に人間は、賢くなくても幸福でいられる。ローマ市民のカルタゴへの憎悪は度を越した恐怖症であり賢明な判断ではなかったかもしれないし、今を生きる我々より圧倒的に知識では劣ってるが、それでもローマ市民である幸福や自恃の気持ちは我々には実感できないバリューが宿っていただろう。十字軍の狂気だって賢くはないが、神の恩寵を五臓六腑で味わう法悦は当時の我々よりも強かっただろう。世界史を紐解かなくても、子供はそれを雄弁に教えてくれる。空がなぜ青いかを知らない子供も楽しげにその青空の下駆け回っている。共通するのは、そこに物語もしくはフィクションがあるかどうかだ。ローマは永遠に強い、神は邪教に打ち勝つ力を授ける、親は永遠に若く、自分は決してSAPIXに行かされることはない、などだ。そこで例えば先見性のある人が現れ、「東方の民族移動から推察するにローマは滅亡する」「兵站はジリ貧となっており今回の十字軍は失敗する」「お前の親の財力と母親の学歴コンプからすれば来春からお前は塾通いになる」など言おうものならよくて鼻つまみもの、悪ければ火炙りにされる。
狂いと救い
人は幸福になるために一生をコミットできるような(コミットできると思い込めるような)物語を必要としていて、自分が生きている物語がフィクションでも嘘でも誰も気にしない。そんな中、賢さを持て余している人、物語がいちいち正しいかどうか確かめて回る人というのは、いわばみんな寝ている中で起きてしまった人だ。二度寝しようにも寝付けない。
真実をバカみたいに追求し、嘘を暴き、その討論の過程をエンジョイできるのは学者だけで、ましてやほとんどの人は夢を見てまどろんでる所で布団を剥がされ「これが現実、お前が見ているのは虚しい夢だ」とか言われても怒るだけだ。
そんな状況になってしまったとき、選択肢は2つある。一つは物狂いになることだ。自分だけの物語を始めてしまう。先ほど学者に言及したが、自分の仮説を証明するために一生を捧げる学者というのは珍しくもなければ異端でもない。これは別に学者に限った話でもない。「自分にだけ見えている美しいものを具現化する」「自分だけが気づいた社会課題を解決する」これらも立派な独自の物語だ。スタートアップ企業の創業メンバーなどがもそれと似たマインドを持っていることがよくある。他人の布団を剥がして寒々した現実を突きつけるより、理想の布団を見つけて誰よりも愉快に爆睡するということだ。
そんな狂い方は天才にしか無理、と思う人もいるだろう。だが、天才と狂人は二律背反のものでもなく、また紙一重で分たれた存在でもない。狂気をうまく飼い慣らした人間が、ただ天才たりえるのだ。身近な例でいうと、日本を代表するアニメ映画監督の巨匠はその種の飼い慣らされた狂いを持っているが、彼の息子は、良い作品を作るものの「狂い」を持ち合わせていない。天才にしか狂えないのではなく、狂いを飼い慣らしてる人がただ天才と呼ばれるだけなのだ。
運悪く目が覚めてしまった人の2つ目の方法は、みんなが見ているフィクションはフィクションとわかった上で、それを楽しむこと。何かしら早めに自分がコミットする架空の物語を見つけて、そこに没頭する事。これは別になんでもいいと思うけど、変に国粋主義や共産主義革命なんかにコミットすると周りが困惑するのは間違いない。参入障壁の低さと参加人口の多さから察するには「平凡だが幸福な家庭を築く」というのはそれはそれでアリだと思う。現に、イエ制度を批判する人の多くが(幸福かどうかは知らないが)家庭を築くという物語にそれなりにコミットしていることを考えると一定の有効性はあるだろう。
「一族の繁栄」という物語
動物だって何世代もかけて生存競争で優位に立とうとするし、人類だってほんの100年前まで一族というリレーの中で勢力拡大に腐心してきたのに、今を生きる我々だけが絶対的な個人主義の中で生きていると思ってる事が幻想なのではないか、と思う。そりゃ確かに親から特権を受け継いだ子供たちを市民が打ち倒し、ギロチンが落ちる音とともに近代的な世界の幕は切って落とされた。だから生まれより能力で出世できるという世界を肯定するのは気持ちいことだろう。
ボルジア家やハプスブルク家のように一族で何世代もかけてレースを行うという風潮は下火になった。代わりに登場した様々な新しい倫理観が、「子を成して(or養子にとり)育て継承し、一族の繁栄をする」というかつて規範や営みにNOを突きつけるし、自分もそういう規範の押し付けは嫌いだけど、それでも数千年間上手く行っていたメソッドが、ここ数十年の、しかもあまりうまく行ってないやり方に劣るとも考えにくい。いくら我々が服を着て火を灯し、獣ではなく人間でござい、と開き直っても、人は獣性を捨てられるほど動物から遠く隔たったところまでは進化していない。
だから「一族の繁栄」という物語に万人が回帰せよというつもりはないが、それよりも強く没頭できる物語か、あるいはそれより強い物狂いの力がない人は大人しくそのロールに巻かれておくのが一つの幸福な形なのではないかと思うようになった。賢さというものは最悪の状況を回避する程度の愚かさにならない程度持ち合わせていれば、それ以上は幸福には寄与せず、むしろ持て余すことも害になるのではないかと考えたのは以上の理由による。筋力と同じで、例えば五輪選手にとっても筋力はないよりあったほうがいいが、あればあるほどいいという競技ばかりでもない。むしろずっと、その使い所や使い方の方が大事だったりするように、賢さも似たような性質があるんじゃないだろうか。少なくとも、金メダリストを目指すなら、筋力に頼る戦い方を選ぶ人がいないように、賢さにしたって、何らかの物語の中で自分の役、もしくはパズルの中の1ピースを演じるを選ぶための手段であり、賢くあることがすなわち幸福につながるというナイーブな考えは選ぶべきではない。
命には無限の価値があるのか
さっき愚かさと書いたけど、さらに突っ込んで言えば、愚かなことをしない賢さすらいらないんじゃないか、とも思える。コンセントにクリップを突っ込むようなタイプのいたずらをする子供がいれば当然親はそれを叱るし、それは叱られて当然だが、では喫煙はどうだろうか。主治医に禁煙を勧められたことのある患者は多いはずだ。喫煙は致死的な転機を産む。即死ではないだけで、明確に寿命を縮めるのみならず、その最後の数年、運が悪い人は数十年が苦痛に満ちたものになる。
医師が患者に禁煙を指導するのは、医師は(少なくとも居酒屋ではなく診察室にいる間は)患者より合理的判断ができ、医学の知識と理論を動員できるからであり、同時にその指導に合理性があり、かつ本人の幸福に寄与する可能性が高い、とみなされているからだろう。しかし、果たしてそうだろうか。
命はゲームではない。ハイスコアを出すために生きているわけでもなければ1日でも長く生きればハイスコアが出るわけでもない。そしてその気になれば寿命が尽きて誤嚥性肺炎になったって、2−3回は命を繋ぎ止めることすらできるかもしれない。人の手で、天が定めた寿命だって数ヶ月から数年単位でいじれてしまう。そうやって命すら伸ばせることを知った人類は平成の終わりごろには「命が長ければ長いほどいい」という考えに取り憑かれるようになってしまった。いや、恥をしのんで言えば、我々医療関係者が、そう思わせてしまった側面はあるだろう。どの職業だって自分達が扱うものは贔屓目に見てしまうし、果物屋は魚屋よりも桃を高く評価するだろう。我々もまた、命より大事なものなどあるはずがない、という錯覚に陥ってはいないだろうか。
現に、タバコを辞められない人の多くは依存症ではあるだろうし、そういう人のために禁煙外来もあるが、それでもなお、自由意志でタバコを選ぶ人だっている。それは純粋に医学知識の欠如からくるものかもしれないし、あるいは命にそこまでの重きをおいてないことだってあるかもしれない。
愚行にはしるという権利
このようなすれ違いが最も可視化され、そして自分の価値観を変えたのはコロナ禍における様々な対立だろう。先んじて断っておくが、この災厄の中、特に第一線の医療従事者は求められた以上の働きをしたし、それは言葉だけではなく然るべき待遇で報われるべきだ。だが、世間は必ずしも味方ではなかった。森羅万象にバッシングをする人間を差っ引いても、公衆衛生の情報を発信する感染症医や疫学者が100%の理解を得られなかったのは、命に関する価値観が決定的にずれていたからだ。つまり病院というのはその性質から、(今のところは)命に無限の価値を置いている。無限の価値があるということは、意外に思われるかもしれないが、もちろん法律も命の前では無視されるということだ。徳洲会の創設者は病院に呼ばれて急ぐとき、運転手が赤信号で止まると殴打したという。そのような特殊な例を挙げなくても、給与の発生しない労働や、帰宅後に飲酒をした状態でも、患者の急変があれば登院する医師の話は珍しくもない。ただ、それは全くもって世間では常識ではない。医療の世界で頑張る人々にはお叱りの声を受けるだろうが、誤解を恐れずに言えば、医療の世界にいない多くの人が感じているのは「命には価値があるが、それは他の全ての価値基準と矛盾のない範囲で、世界を蝕まない範囲で価値を認めるべきだ」というのが偽らざる本音だろう。
「感染を収束させ、死者を最小化する」ということにもし無限の価値を置いたら医学系の専門家たちの提言に従うのが最適解だったが、実際にはそうはならなかった。事業をおこなってる経営者にとって不確かな確率で自分が感染するよりより高い確率で閉業する方が期待値としては悪いのは頷ける話だ。そこまで深刻な問題を持ち出さなくても、大学の新入生にとって、部活やサークル選びの時期を逸してしまうことは、低めの確率で起こる感染や死のリスクをとってでも回避したいことだっただろう。そのような形で、命に無限の価値を置くという価値観と、命には有限の価値しかないという価値観のすれ違いをまざまざと見せつけられた一年だった。
命に無限の価値を置かない選択を愚行というのは少し乱暴な言い方になるけど、一旦ここは愚行と言おう。我々は通常、人生を豊かにしよう、長生きして、栄え、富み、愛される、救いのある人生であろうと思いたがる。それは我々がわかりやすくハッピーになる道だからだろう。そして同様に、他者、たとえば我が子にもそういうハッピーな道を歩んで欲しいと思うのは自然だ。もし我が子がいたとして、愚行に走るとき、その自由を奪うのは許されるのかという問題が生じる。なお愚行権自体は19世紀にミルが唱えたもので、実は目新しい問題ではない。
結論から言うと、愚行権は認めざるを得ない、とミルは結論づけている。親が子供の愚行を止める時、それは別に悪意があるのではなく、子供にも良い人生を歩んで欲しいという思惑がある事は想像に難くない。だが、良い人生を歩むことが人生の目的か、というのはちょっと考えなくてはならないだろう。自分で自由に選びとった愚行に彩られた人生と、誰かから押し付けられた正しさで舗装された人生、どちらが幸福だろうかを。
自分が永眠したときに、自分の人生のスコアが表示され、何人から慕われた、何人を救った、何円稼いだとかが表示され採点されるのであれば、模範解答のような人生を歩むことは必要になるだろう。だが残念ながら採点者はいない。
他ならぬ自分が、自分の人生がよかったかどうか決めるんだ。臨終の床についた時にこれで良かった思える人生、あるいはどこかのタイミングでこれでいつでも死ねるな、と思えるほどの幸福を知る事こそ大事だろう。その時に、押し付けられた栄達と成功よりも、自分で選んだビタースイートな挫折の方がずっと満足できるんじゃないだろうか。たとえそれが異国の路地裏で行き倒れ、泥の中に倒れて独りで息絶える最期であっても、「自分で選択した結末」という満足はかなりのプレミアムなものなんじゃないかなと思う。
愚行権の行き着く場所:生命主義vs家族主義
他人から見て愚行に見えても、たとえそれが本人の人生や命を損なうものであっても強制されるべきではない、というのが愚行権の考え方である。日本では多くの権利が認められているが、愚行権に関してはまだ知名度は低く、特に健康分野では劣勢だ。SF小説の「ハーモニー」ではその対極の存在として生命主義という造語が登場する。「構成員の健康の保全を統治機構にとって最大の責務と見なす思想」であり、喫煙の非合法化や、疾患の早期発見と完全な治療、心やさしく慎み深い隣人や職場などとして実現されている。現実はここまで進歩していないが、構成員を患者、統治機構を病院と置き換えれば、今の病院の役割を端的に言い表していると言ってもいい。もっとも、病院がその責務を持つのは当たり前のことであり、何ら異常ではない。だがその外にまで、責任を持つ、つまり肺病患者が自宅で喫煙をしたり、糖尿病患者が自宅で饅頭を食べたりすること、あるいはそれを通り越して、「将来的に肺疾患になって病院に来る可能性の高い人間がタバコを吸う」ことにまで責任を持とうとしている。
白状するとコロナ前の世界では私は生命主義者に近い考えを持っていた。だが、この混乱と社会の反応を見て、考えを改めた。命に無限の価値を置く一方で、自由選択できる生を蔑ろにし、死を遠ざける思想には未来はない。どれだけ長く生きるかではなく、いかに満足して死ぬかに主軸を移す潮時だろう。子供の頃、歴史上の人物を見るたびに生没年を確認し何歳で死んだかを計算していたが、それが無駄なことだったと今ならわかる。近隣に不穏な勢力を残したまま幼い孫を残して畳の上で大往生するよりは、孫も元服して、近隣を平定し、最後の戦いで敵の総大将と相打ちして壮烈に戦死する方がずっと満足度は高そうだ。
私が忌避していたのは、断絶であって、死ではなかったのだ。もちろんそれが重なる時はあるだろうけど、家族に、周囲に、人に、世界に、伝えていく何かを残せたならそれは全くもって悲劇でも損失でもないし、そういう遺すべきものの受け皿になる物語としては「一族の繁栄」という物語はとても相性が良い。自分が起こした会社なら高い確率で時代の波に飲まれて消えていくし、何らかのイデオロギーに参加していたなら相当上り詰めないと自分の要素は消えてしまう。
賢さと命の価値が低下した今、何に価値を見出すのか
賢さを人と比べるのは不毛だが、幼き日の自分となら比べてもいいだろう。そうすると、大抵の人は子供の頃よりも賢くなっていることに気づく。そして同時に賢くなり、より合理的な選択ができるようになったのに、苦悩の量も増えたことに気づくだろう。合理的な思考とは、二つ以上の議題やテーマの脳内での議論であり、闘争である。その闘争の勝者が意思決定の主導権を握る。当然ながらその闘争が長引けば疲労も苦悩が蓄積していく。賢さは最低限で良いとなれば、なるべくそのステップを踏まずに意思決定できるようになればいい。思い出してほしい。子供の頃はできたはずだ。深く考えずに選択することが。
コリント人への手紙でも
「童のときは語ることも童のごとく思うことも童のごとく論ずることも童のごとくなりしが人となりては童のことを捨てたり」
と書いてあるし、徒然草でも、人間が円熟していくと子供のように素直になっていく、と言っている。子供の状態というのは未熟で早く脱却すべきものだとずっと思っていたけれども、むしろベースは子供のようなあり方でいて、本当に必要な時だけ、賢さを使うにとどめた方がいいのかもしれない。あるいは子供よりもっと、賢さから遠いところにいるもの、そう動物である。
人間は自分が動物の一員であることを忘れがちだけど、驚くほどくっきりとその名残はある。体温が低い時や天気が悪い日にはモチベーションが乗らないのは悪天候時に狩をしても失敗率が高いからだし、ホモサピエンスらしく仕事に集中したいのに気が散るのは、常に外敵に気を配って生き抜いてきた先祖の名残だ。そういう痕跡を殊更に無視してオフィスで仕事しようとするから色々と歪みも出てくる。ならば思い切って童心や獣性に帰ってみたっていいだろう。
童心に還る具体的な方法
じゃあどうやって童心に帰る、あるいは獣性に還るか。これは色々試してみたいし、これ自体が2022年のテーマになるかもしれないけど、パッと思いついた限りリストアップしてみる。
人に委ねる
いきなりショック療法。人に委ねることで選択の自由を手放す。自分からはできないが、何か人の手に委ねないといけない時に内面の変化を観察してみることにする。
身体性を重視する
デスクワークが増えるとつい頭だけが存在しているように思うが、むしろ身体あっての脳。脳を使う時間を削ってでもちゃんと走ったりして体のコンディション万全な状態にする。あるいは走ったり泳いだりすることで雑念のない時間を確保する。
感情・感覚重視
これもなかなかハードルが高いけど、ちゃんと今自分がどういう感情か意識して、それが表出できるものであれば表出する。感覚も大事で、我慢をせず、食いたいもの食って行きたいところに行く。消費重視で行く。
最適解のセットリストを持ち合わせてない分野に飛び込む
これはもうすでに効果を実感している。あるルールを与えられて数年もすればそのルールの中で強い立ち回りする最適解セットみたいなのが見えてしまうから厭世的になるけど、既存のやり方が通用しない環境に来ると、定石に縛られず、何だってできるし、何にでもなれるという選択肢の多さや可能性の大きさを前に童心に帰れる。こういう環境をもう一つ二つ持っておきたい。
生命主義と合理性の放棄、その先にあるもの
ここまではなぜ生命主義や合理性への偏重から決別したかを考えてきた。最後に、その先にあるものを考えよう。
かつて学部生だった頃は、誤った医学情報やフェイクニュースを垂れ流すデマ屋を表立って批判していた。それはそれで立派な心掛けかもしれないけど、実効性と実行性との2点で自分向けではないと悟った。
まず実効性の点として、たとえその試みが上手くいってマイナスを少なくできたところで、そのゴールはマイナスをゼロにする事である。しかし幸か不幸か、たいていの世の中の物事はまだ完成完璧には到達できていない。だからゼロにするだけで十分というわけには行かない。
さらにこの試みは成功しない。特にコロナ禍において、有志は正確な情報を発信し一定の成果を上げた。しかし、その中の一部は、さらに一歩進んで、発信のみならず、誤った知識を正すという意図のもとデマ屋と議論を行った。だがそもそも教義の違う者同士で話し合いなど成立するべくもない。だってもし人間が十分に合理的で、異教徒でも話し合いが成立するなら、十字軍も原理主義のテロも起こるはずがないよね。議論を行う二人ともが国家指導者や宗教指導者よりも聡明かつ理解力が高いという前提は無謀だし、それならもはや話は通じず殴り合いで雌雄を決するしかなくなる。殴り合いはそれはそれでお祭り騒ぎで楽しいけど、さすがにそれが日常になってしまうと飽きてしまう。この1年を振り返ると、殴り合いがかなり目についた年だったことは疑う余地がない。
そして最後に、俺はむしろゼロをプラスにする方が好きだと気づいた。この世界から愚かさや邪悪といったものをすっかり取り除かれた、苦しみのない世界は良いものかもしれないけど、やはりエントロピーは高いより低い方がいい。穴のない滑らかで滑らかでなだらかな世界よりは、憎しみも悲劇も野放しだけど、そこに楽しいことや面白いものをもたらすことの方が自分の本性にあっている。
それを達成するには、生命主義に代表される一連の「正義」や「正論」を振りかざすのを辞める/辞めようと決意した事も含まれる。これがこの1年を振り返って出会った価値観であり、そして捨てることにした古い価値観である。
さようなら2021年、さよなら生命主義。