天国にはいけない
私は灰色だった。明るさも暗さも秘めていた。どっちつかずの、陰鬱で、切ないグレー。
高校の制服のスカートは灰色だった。しっかりとした生地で重みがあり、端正にプリーツの入ったそれを膝上にくるように折っていた。本当は校則違反なので、律儀に校内に入ったら伸ばしてしまうような従順さに苦しめられていた。
6月の電車は灰色だった。というか、目に入るすべてのものが大体色彩を失っていた。
期末テストの1日目。起きようと思ったら、本当にさっぱり体が動かなかった。全身が粘土みたいにひんやりとしていて、重たい。
いつもなら家を出る時間にベッドで天井を見上げていた。枕元に一限目の教科書が開かれたまま転がっていた。
こういう時、自分の面倒くさいのは取り返す気がなくなってしまうことだ。今からでも準備すれば何本か電車を遅らせる程度で済むのに、いつもと同じ電車で乗れないのなら行っても仕方がないと思ってしまう。
もう本当全部どうでもいいや、と思った。テストも成績も下がったっていい。
どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。
許さないのは母親だった。行きたくないと泣きじゃくる私に、「まだ間に合うから」を繰り返した。まだ間に合ったっていきたくない。どうしたっていきたくないのだけれど、私はとうとう家を出るしかなくて。
目尻が痛かった。そのうち瞼が腫れて無様な姿になるのがわかっていたので地面を見て歩いた。ローファーで踏みつけたアスファルトもじゃりじゃりとしたグレーだった。
灰色の電車が灰色の人々を吐き出したり、呑み込んだりしていた。私もその流れに身を任せた。いつものアナウンスが学校の最寄駅を知らせた時、また身体が粘土になるのがわかった。ちょうど、朝のホームルームが始まるくらいの時間だった。だからもう同じ制服の人は車内にいなくて、今走れば少しの遅刻ですむ。テストも間に合う。でも__でも__。ドアが閉まる。
それを見てからやっと苛烈な焦燥を感じたのだけれど、それすらも一瞬で次にはまた心底どうでもいいやと全てを投げ出していた。そのまま死んだっていいと思っていた。辛いのは勉強とか学校とかそういう単純なことじゃなかった。自分を取り囲む全てが息苦しかった。
いくつかの駅を過ぎた頃、私はようやくのろのろと電車を降りた。
このまま帰ろうか、それとも一限だけ捨てて、その後のテストを取り戻そうか。考えるだけでも嫌なため息が出た。戻りの電車に乗らねば家も学校も離れていくばかりだったので、渋々反対側のホームに目を向ける。いつの間にか線路は沿岸を走っていたらしい。
海が青い。
当たり前のことのはずなのに、私はその景色に釘付けになった。
その青は身体中に染みていくようだった。波が光を反射してきらめいている。眩しい。眩しくて、眩しくて、本当にそれは。
通り抜けた向かい風が、潮の匂いをわずかにつれて鼻腔をくすぐった。
「……綺麗」
思わずつぶやきが漏れる。
いつの間にか喉元を締められているかのような息苦しさは霧散して、深く息が吸えるようになっていた。
その時ほど私が自由を感じた瞬間はなかった。
教師も、母親も、期末テストも、学校も。何もない。
誰も私を知る人はいないこの場所で、私はただ海を見ている。私は私の意思でここに来て、ここに立っているんだ。
そう思うと何とも言えぬ感情がせり上がってきた。今なら何だってできる気がした。
私はそうやってしばらく、電車を何本か見送りながら海を眺めていた。心に移りゆく儘に様々なことを思案して、結局はたと行き着いたのは私は元々、ずっと自由だったのかもしれない、ということだった。
縛られている、と思っていたものを一つずつ思い返してみる。どれをとっても、私は自分の意思で変えていこうと思ったことはあっただろうか。
辛い、苦しい、死にたい、生きたくないと思いながら、なぜ辛いのか、どうしたら辛く無くなるのか考えたことはあっただろうか。
いつだって抑圧されていると決めつけて、勝手に下を向いていたのは自分のような気がした。自分の自由を自分が奪っていた。
もっと楽に、息をしよう。
自分の意思できちんと前を向こう。
音声案内の隙間から、ざざざ、と波の音がわずかに聞こえてきた。
大丈夫、だってここまでこれたんだもの。
そう、勇気づけてくれているような気がした。
見出し画像に確かにあの日撮ったはずの海を載せようと、カメラロールを遡ったけど見つけられませんでした。記憶の中だけにある、宙に浮いたような、もうどこにもない場所。