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終わる

もうこれで終わりなのだ、とそうはっきり感じることができるのは若さの特権だと思う。痛々しく、残酷な特権だ。

「いつかまた会える」 はじめからその話をすればよかった/宮下奈都 

 私は覚えている限り2度ほど本当に人生が終わる、と思った経験がある。
それは何もかもが辛かった高校生の時と、つい最近大きく転ぶような挫折をした時。
 何度か書いてきたけれど死を望む気持ちは長い間私の傍にいて、とても大きく心を揺らされるような出来事があると「よし、本当に終わらせるか!」と走り出してしまうのもままあることだった。それが、実現可能に近かったのが残念ながら、人生で2回。
 私の中で死ぬことはは恐ろしく残酷でも、悲しいものでも、真っ暗なものでもない。だからといって大袈裟な救済だとかと思っているわけでもなくて。ただ、止まりたいから、止まる。それだけの感覚に近い。だが、実際のところ動いているものを止めるというのは物理的にあまり簡単なことではない。

 1人で行くあてもなくドライブした日、道の端からダムが覗いていた。名前も知らないし、水源もわからない。ただ通り過ぎたから「ダムだ」とぼんやり思っただけだったのに、妙に脳裏にへばりつくようになってしまった。

 電灯の光が鬱陶しいから、大抵部屋は薄暗かった。思考の海に溺れて眠れもせず、天井をいつまでも眺めるようなことをやっていた。
 もうダメだ、と思った。するとあのダムの轟々と流れ落ちていく音が聞こえてくるような気がした。泡立つ飛沫がじかに触れるようだった。あたりは誰もいない。暗い。暗いところは、本当は結構苦手。
 私はそこに足をかける。空気はとても冷たくて、寒い。高いところも、ずっと小さい頃から嫌いなんだけどな。

 そういう想像を日がな繰り返して、今度こそ届いてしまいそうだった。

 もう終わりだ。心底そう思ったのになぜまだ終わっていないのかというと、2度とも見かねられたからだった。自分でも死にそうだなと思っていたら、やはり周りからも死にそうだな、と思われていたらしい。

「瑠花がさぁ、変な気でも起こすんじゃないかと思って。ほら、そういう人って本当にスッといなくなっちゃうから」

 そう言ってその人は笑った。冗談ぽく言っていたので、私も「そんなわけないですよ〜」と誤魔化し笑った。その人は私よりずっと長く生きていた。とても聡明な人だからお見通しだったに違いない。本気で止めようとしてくれていたのだ。

 他にもたくさんの人にここにいることを許された。ありがたいことに。
そうか、私はゆるされているんだ。私が生きたいかそうでないかはさておき、私は生きることをゆるされてきて、今もまだゆるされている。そう気づいた時、私は安らぎを覚えた。

 そこからこつこつやり直してきた1ヶ月だった。振り返ると、思いもよらぬ方向にまた人生が変化している。
できないことの多い自分を呪ってきた人生だが、私にはどうやら”見かねられ力”は備わっていたらしい。 

 私はこう見えて生来の負けず嫌いだ。一等賞が欲しかった。でもいつも届かなかった。届かなくても、諦めの悪さだけは一級だった。
そうしたら、努力賞をもらうことができた。一等賞とはもちろん形も名前も違う。それはとても温かくて優しい光だった。
やっぱり全然満足なんかしていない。過ぎたことに悔しさばかりの日もある。でも、努力賞がもらえる人生は悪くない。おかげさまで、人生が続いている。これから。これからがあるから、いつかいっとう欲しいと願うものを得られる日が来るかもしれない。

 人生は続いていく。私はまだ若い。
この先も多分「終わる」と感じることはあるだろう。その度に続いていくこと、続けていくことを知っていく。終わらないまま生きていけるように、鈍くなる方法も学ぶだろう。
 幸福はだいたいいつも絶望の手を引いて訪れる。だったらその逆だってあると最近気がついた。絶望が今そこにあるならば、この先きっと幸せになるしかないのだと。

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