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医師のハビトゥス、という課題

下記の本を再読した👇。
やはりこの本は、特に医者は、全員読んだ方がいい。

ついでに、この著者の他の本も読んだ方がいい。
医師こそリベラルアーツを、とか言って、いかにも「今どき」の自己啓発本やお手軽哲学本を読んでドヤッてる場合ではない。


ひとまず、「コロナ禍と出会い直す」において、我々医師、特に若手ではない医師が自覚的でなければならない重大な課題が突きつけられているので、備忘のために触れておきたい。
それは、著者が「分析には至らなかったものの、コロナ禍を理解する上で極めて重要と私が考える論点」と言う「医師のハビトゥス」である(5章2より)。

「ハビトゥス」はフランスのピエール・ブルデューが提唱した「慣習」を形作る概念装置、とのことだ。

慣習とは「特定の社会集団が共有する特徴的な行動様式の全体」を指す。
(中略)
慣習にはそれぞれの社会の倫理観が埋め込まれており、慣習通りに振る舞うことはその社会において倫理的に振る舞うことにつながるのだ。

5章2

端的に説明するとハビトゥスは、社会化の過程で個々人の身体に埋め込まれた、言葉や振る舞い、さらには趣味のような心的傾向を生み出す装置のことを指す。
(中略)
プルデューは、「身体化され、自然となり(中略)の忘却された歴史」とハビトゥスを定義付けた。

5章2

そのうえで、「医療」には医療の外側とは異なる独自のハビトゥスがある、という。いや、私の実感としても、間違いなくある。
そして、それを

冷静に相対化して受け入れる方法論(「姿勢」でも「力」でもないことを強調したい)が医療の外側の人々に求められている。医療の倫理がそのまま暮らしの倫理になることはないのだから。

5章2

なんだかお手数をかけてしまい、本当に申し訳ない。
これはむしろ医療従事者、特に医師が、わが身を振り返りつつ考えなければならない課題なのではないか、と思う。
その際、下記の著者の言葉をきちんと自覚しておくべきだろう。
全くその通りすぎて、ぐうの音も出ません。

私は命の現場が医療だけだとは思っていない。そのような現場があるとしたら、それは一人ひとりの暮らしそのものだろう。加えて、医学に詳しい人は、他領域についての勉強が不足していると思っているし、医師という資格が与える特権が人生をある側面ではお気楽にさせてくれていることも知っている。

補論5より

医療が持つ社会に対する影響力は、ここ数年であまりにも強くなってしまった。だから、我々医師が「世間」や「お上」を隠れ蓑にできる時代は終わっている。

影響力が強くなったからこそ、医師は、自身に備わるハビトゥス、つまり自分たち特有の考え方や感じ方の癖について各々が内省すべきだ。
そして、なぜそのようなハビトゥスが形成されているのか、我々に備わってしまったのか、その「歴史」について知る努力をすべきだ。
しかし、「医療の進歩」が強調されるあまりに、その「歴史」はとても見え辛い。
だから「知る努力」が必要なのだ。
その際に最も有用な示唆を与えてくれるものの一つに、医療人類学があると考えるようになった。

最も、「独特のハビトゥス」を持つ影響力の大きい職種は、医師だけではないことは言うまでもないし、己のハビトゥスにあまりにも無自覚すぎる人間は医師以外にも多いことは言うまでもない。

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