生き様を示す、ということ
下記のサイトは、いつも考えるきっかけを与えてくれる。
「印籠がなければ水戸光國は「越後のちりめん問屋」のまま。人そのものではなく印籠という役職のシンボルが権威を持ち、同じ行動をしていても一目で分かる物が出た瞬間に有難いものに代わる。その点が、私は嫌いです。
暴れん坊将軍も似たようなものですが、役職の象徴が「人の顔」にある(徳田新之助の顔をよく見ると吉宗であることに気が付く)だけ、まだましな気がします。
でも、私は必殺シリーズのように、吹けば飛ぶような立場の人間が、自ら手を汚して権威を仕置きする。本人たちは「金のため」とうそぶきながら、実は怒りと情に後押しされている。そんな姿に痺れます。
ヒーローの行動が持つ説得力を保証するのが、役職やシンボルなのか、行動する人間そのものなのか、が大きな違いなのかも知れません。そして他国はともかく、我が国では前者の傾向が強いような気がします。」
以上のようにコメントしたが、もう少し考えてみる。
ある人を信頼に足るか否か評価するとき、その人の社会的地位を重視するのか、その人の思想や言動を重視するのか。
人の思想や言動を評価するとき、自分自身の思想や言動が基準となる。基準を持っていなければ評価ができない。
しかも、それらをただ漫然と持っているだけでは駄目だ。
歴史上、数多の人間が言葉を紡いできた。しかし、時代を超えて、古典として今も読み継がれているものは、ほんの一握りだ。つまり、思想のほとんどは陳腐化する運命にある。
ゆえに、自身の思想や言動も更新し続けなければ、あっという間に陳腐化する。その結果、自身の判断の基準も陳腐化する。陳腐な基準による評価は、当然のように陳腐なものになる。
陳腐な人間が高く評価する人間は、同じように陳腐だ。陳腐は連鎖し、その結果、陳腐な人間は陳腐から脱する機会を失い、より陳腐になる。陳腐スパイラルというべき状況だ。
陳腐に陥らないためには、常に学び考え続け、思想をup dateし、それに基づいた行動と判断を行うことが求められる。
しかし、これはなかなかの茨道だ。
だから、本当は社会的地位を重視した方が楽だ。
地位は社会により保証されたものだから、それに従えば、自分の基準で評価する必要がない。ゆえにそれを持つ必要もない。社会が保証した基準に従っていればそれなりに体裁が保つことができる。
不満があれば、仲間内でこそこそと文句を言っていればいい。狭い世間でお互いを承認し合えば、なんとなく満足で、うさが晴れるというものだ。
普段から善い行いをしていれば、地位の高い人間が見てくれていれるかもしれないし。憐れに思って助けてくれるかも知れないし。
・・・・確かに、そんな世界ならどんなにいいだろう。
しかし、それは陳腐化の歯止めがかからない世界でもある。
私は印籠にひれ伏すのも嫌だし、印籠で事を解決するのも嫌だ。
それは陳腐スパイラルを生みだすことにしかならない。
「新必殺仕置人最終話」で「そう…あんたの思ったとおりだよ、諸岡さん」という言葉とともに自分の上司を叩き切る中村主水のように、例え「必殺からくり人12話」の夢屋時次郎のように(おそらく面が割れないように)顔に火薬を塗りたくって自爆しようとも、例え「新必殺仕置人最終話」の念仏の鉄のように右手を焼かれた上に女郎屋で野垂れ死のうとも、自身の思想と怒りと情を頼りに生きていきたい。もし敗れたら「負けて悔しい花いちもんめ」と口ずさめばいいのだ。
そんな業の深い生き様に、死ぬほど憧れる。