不登校ってなんだ

1.学校とか教育とか

私が日本の学校に対して疑問を持ち始めたのは中学生の時だった。
学校図書館で『ミュンヘンの小学生』(子安美知子著)を読んだ。
こんな学校に行ってみたいなと思った。

小学校ではいじめがあり、体罰をふるう教師がいた。
中学校は校内暴力まっさかりで、おちおちトイレにも行けなかった。
教師は誰もかれも血が通っていないように見えた。

私は成績が良かった。ただそれだけで、教師もクラスメイトも、私を誤解した。
学歴重視だと言いながら、学校で幸せなのは
・学校に疑問を持たずに楽しく過ごせること
・世間一般に言われる「かわいい子」であること(クラスメイトあるいは教師に好かれる)
・クラスメイトの価値観に馴染み、話を合わせることができること
この3つができる人間だと思っていた。

学歴なんて学校で幸せに過ごすこととなんの関係もないと思った。

彼ら(級友たち)が私を誤解したように、私も彼らを誤解していたのかもそれないと気付いたのはそれから何十年も経ってからだったが、それでも、今も、相変わらず、「仕事ができること」よりも「女性として職場の邪魔にならないこと」が重視されている職場が多いことには間違いないように思えるし、それが幸せかどうかに関わらず「生きやすい」ことではあると思う。

そういうわけで、私は常に、学校にどっぷりと浸かることはできなかった。頭の中の考えは誰にも言わないまま、ひたすら暴力的な学校で生き延びることに必死だった。

2.不登校に直面する


大学でフリースクールや障害児教育について自分なりに調べて論文を書いて卒業した。
世の中には、教育について真剣に考えている大人はたくさんいるのだと知ったことで、将来に希望を持つことができたように思った。
しかし、それが現実に反映されるわけではないことに直面した。

息子たちの不登校である。

学校に通わせることがすべてではないと知っていた私は、比較的容易に不登校を受け入れた。
しかし、それだけで済まなかった。

簡単でなかったのは以下のことである。
1.周りの教育について学んでいない人たちが不登校を受け入れられなかったことに対する対処法を知らなかったこと。
理解がないことに対しての免疫がなく、うまく共存できなかったし、「学校へ行かせるべき」という圧力の強さに抗うことに力を使いすぎた。
2.公立小中学校に通っていれば無料であるはずの義務教育であるが、不登校になったとたん、基礎教育は無料ではなくなり、給食の代わりに配達されるわけもないから、昼食は家で準備するしかないので、経済的時間的心理的な負担が養育者にのしかかってくるということ。
3.学校が保育施設のような役割を担っていることがわかったこと。「子供が学校に行っている時間」を有効活用できる親とは違い、不登校で子供が家にいる親は、24時間気が抜けない状態になってしまいがちであるということ。

民間のフリースクールだって義務教育の一環として国から補助をもらっていいはずなのに、不登校そのものを認めたくないのか、相変わらずフリースクールに通わせられる経済力がある家庭かどうかに左右されるところもある。

いくら親である私自身が不登校というものに理解があろうがなかろうが、現実は容赦がなかった。それでも、子供たちが家の中だけでも落ち着いて平穏に暮らせるような工夫はしてきたつもりだが、私自身が時折精神的に参ってしまうのは止められなかった。

     

3.不登校からの卒業


それでも子供たちは育ってゆく。
時は止まらない。

私はいつも思うのだ。
親は、親だというだけで、自分自身の成長を止めてはいないかと。
子供に常識を押し付けたり、あーだこーだとアドバイスする暇があったら
自らを成長させることにも時間を使いたい。

親だというだけで、完成した人間というわけではないのだから。
子どもの人生は子どものものである。
関われる時間はそう長くはない。そう長くはない、という風にしていきたい。
そして何より、自分自身の人生を歩まなくてはならない。

いつかは、「不登校の親」という肩書を手放し、自分の人生を歩くのである。
それが親としての卒業であるともいえる。

子どもたちの不登校から何を学んだか。そこから何を得て、これから何をしていくのか。
それとも、やれやれと安堵して「あるべき親の姿」に戻っていくのか。
親の人生のそれぞれであろうと思う。
不登校から引きこもりに移行する子どもも少なくないが
親は、いつまでも「不登校の子どもの親」でいようとしているのではないかということも、少し立ち止まって考えてみるのもいいのではないだろうか。

不登校の親たちと関わってみて
・夫に従うだけの人
・義両親との軋轢で苦しむ人
・スピ的な解釈で精神的に楽になろうとする人
・経済的に豊かで海外留学やフリースクールに通わせられる人
・自分の成功例を押し付ける人
・親自身が学校に適応することを望んで、教師と共に子どもを矯正しようとする人
等々
様々なタイプの人を見てきた。
結局は親も「人」なのだ。
不登校が千差万別であるのと同じで、親も千差万別である。

マニュアルもなければ「こうしたほうがいい」という法則があるわけでもない。
最後に残るのは「わたしはどう生きるのか」だけである。
「親として」できることには限界があるが、「人として」できることはたくさんあるような気がする。

4.不登校から見えてくるもの


私が不登校の子どもとともに暮らしてきてわかったのは
・日本の様々な制度の歪み
・制度からはずれた人間に対して、人間はどれだけ暴力的になり、無自覚にそれを「善」と思い込んでしまうこと
・お金の力によって、制度から外れてもうまく生きていける人とそうでない人が生まれてしまうこと
・自分の常識が通じない相手に対して、どうしてもコントロールするのが大多数であり、コントロールするものだという常識が存在すること
・日本の「当たり前」から外れた時に、「スピ的解釈」をしなければ現実を受け入れられなくなるような精神的弱さを持っている人が多いこと
・不登校を自分の信条に利用する人がいること(だから海外がいいんだ、だから自然との共存がいいんだ、みたいな)

今、子どもたちはとっくに成人し、私は離婚しでおり
子どもたちの姿が目に入らないところで生活している。

小学生から不登校を続けた子どもたちと暮らした日々は遠くに感じられるけれど、そこで考えたこと、経験したことは、私の血肉となっているし、それがこれからの私を支えていくようにも思う。

不登校の親御さんの悩みを聞いていても、わたしは、「ひとつの解決策」だけを提示することもないし、不登校だけが問題とも思わない。
なので、まあ、何か悩んでいることがあるのなら、話を聞きますよ、というスタンスでいる。

親も子もひとりの人間であって、誰からもコントロールされるべきではない。
自分の人生をどうするか、という最終目標を忘れるほど悲しいことはない。
それさえ忘れなければ、何を考え、何をしても、それは自分に結果として戻ってくる。

5.付随するもの


起立性調節障害や発達障害など、不登校に付随するものはあるし
やれ栄養の問題だの、身体ができていないからだの、というアプローチがあるのも知っている。
でも、それだって、別に不登校に限ったことじゃないじゃない?と思っている。

不登校という現象に、ただ「生きるのに困難なこと」をくっつけて、それを解決すれば「学校に通える可能性がある」かのように結びつけるのは、私の好みではない。

それはそれとして。健康や性質や性格や脳の問題で通えないような「学校」ってなんだよ!と思う。

ある一定の人間しか居られないような施設を作り、そこでしか対応できない「先生」を置いているという現実がそこにあるだけで、その「先生」を権威であるかのように勘違いして私たちは生きているのではないだろうか。

生きづらさを少しでも緩和するような知恵と知識、それについてはブログで書いていく。

私がたどってきた道が、誰かのお役に立てれば幸いである。

「不登校」というくくりがあまりにも雑で、あいまいであり
経験した親子とそうでない親子の間に、薄い膜があるのを感じてきた。
その違和感のようなものや、一般的な不登校への認識に対して、言葉を足していければと思っている。

デザインをするのは得意ではないし、文章も粗削りで書きっぱなしであることをご了承ください。

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