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どう生きる?

昨日から何度も書き直しているのだけれど
まとまらない。
さっきも筆が進んでさあ投稿だと思ったら
「これ、やばくね?」と自分に検閲が入った。
今の日本では発言を気にしなければいけないところはままあるから。

というわけで、改めて。
久しぶりのブログです。

結論
「制度から出ても生きていける支援が大事」「どう生きるかが大事」です。

今の支援ってどうしても「制度に適応できる人間にしよう」になってしまっていて、さらに生きづらい人を生み出しているのではないかと
私は思うのです。

そもそもその制度を疑っていないのがすごい(ほめてない)

家族制度で苦労した人もいる。学校制度で苦労した人もいる。
なのに、家族に戻れる人間になれとか、学校に適応できる人間であれとか
そういう方向付けをするセラピーや支援者多くないですか。

魚は水の中にいて水を理解できないように、人間は空気を意識しません。
そして、家族制度に守られている人は家族制度が見えません。
学校制度に乗っかっている人に、学校制度で苦労している人の気持ちはわかりません。わかったつもりになってるかもしれないけど、わかっていません。
どんなに優秀な支援者であってもです。いい人かどうかは関係ありません。

私は子どもの不登校を通じて、学校が持つシステムのおかしさが見えました。親さえも村八分にしていくシステムを身に染みて知りました。
そしてまた、離婚した後マッチングアプリをやってみて、夫婦という概念が崩れていっていることを知りました。
これも夫婦生活がうまくいっていると信じ切っていて、それに気持ちや経済が守られている女性にはまったく見えない世界です。

人は、経験したことがないものは見えないのです。ないのと同じです。
私は身体がいつも疲れている状態だったので、読書を習慣にしていました。そこで、自然や食べ物の大切さについて知り、「大人になって自由に台所が使えるようになったら実行しよう」と思っていました。
しかし、健康な人にはそういう情報は目に入りませんね。
人間は、ずっと生きてきた習慣や、自分の興味の範囲でしか世界を見ていないので、見えていないもののほうが多いのだろうと思います。
しかし、それなのに「私は何でも知っている」と思い込んでいます。

長男に障害があり、次男にはないという方とお話した時
「長男のクラスでは緊張するけれど、次男のクラスでは緊張しない」と語っていました。
わかりますでしょうか。
子どもの状態によって、その集団における自分の立ち位置が変わるということです。それは、親個人の問題ではありませんが、経験してみないとこの感覚はまったく理解できないですし、それ故「あなたの気持ちの問題でしょう、みんななんとも思ってないですよ」などと言ってしまう。

不登校の親の話を何度聞いたところで、学校における「不登校の親の居づらさ」は実感できません。学校という空間において、「不登校」は許容されない単語なのです。どんなに親の意識を変えようが、学校が持っている「全体の意識」が不登校を外してくるのです。

一夫一婦制も同じようなことが起きているのですが、それは説明しても理解されないことが多いだろうと思うのでここでは割愛します。

ただ、「制度の中で上手に生きていると思っている人たちには見えていないものがある」ということです。
「わからない」ということに対する自覚ほしいです。

不登校児を育てている親に向かって「今はYouTubeとかで稼ぐ道もあるしねえ」とか簡単に言う人がいますけど、じゃああなたはYouTubeで稼ぐ方法を教えてくれるんですか、と尋ねたくなります。
やってないからわからないのです。それが誰にとっても簡単なわけではないことが。

きちんと雇って法律にのっとって給料を払う職場が少ないということも、苦労していない人にはわかりません。(安直な決めつけと言われるかもしれないですが、運よく苦労しなくていい人はいるので。運も実力のうちという理屈は今は置いといてください)
だから簡単に「仕事なんて選べばなんでもあるだろう」とか言うわけです。

家族制度が国にとって非常に有利に働いていて(税金を取り損ねないなど)
だから、専業主婦に手厚く、家事育児をしていれば困らない生活がありました。なので、「どんなに好きではない人とでも結婚してしまえばよい」と思っている女性もいます。
それは人の自然な感情に逆らっているのですが、色々と抑圧しても経済的に困るよりはましということで、それ自体、いいも悪いもありません。
だけど、今、それはかなり手詰まりになってきているような気がしています。(自分の本心を抑えていることは必ず周囲に影響を与えます。自分がそれに気づかないだけで。そしてある段階で思い知らされることになってしまうので。私は正直に生きるのが一番だという考えです)

いろんな不具合が起きている今、自分を抑圧することに無理が生じてきているのではないかと思うのです。
不都合なものは観ないで済んだ人たちでも
たとえば親の介護で夫婦間に溝ができたり、子どもに何か起きたりすれば
直視せざるを得ません。
その時です「どう生きるか」が問われるのは。
急に仕事を探さなきゃならなくなるかもしれない。パートナーとどうしても一緒に暮らせなくなるかもしれない。子どもに期待していたのに梯子を外されるかもしれない。精神疾患になるかもしれない。

どう生きるか、はこれまでのシステムの崩壊と同時にきます。
もしかしたらそれは地震や洪水によってもたらされるかもしれません。

その時に「制度に適応して生きる術」しか知らないのと「制度から外れても生きていける力」があるのとでは違うと思いませんか。
今のカウンセリングや何とか療法、○○セラピーなどはほぼ「適応させる」「制度を乗りこなす」ことを目的にしています。でも、大切なのは「適応しなくても生きていける社会」じゃないかなあと。
適応しなくても生きていける社会で、制度から外れても生き抜ける力が必要だと思います。

私はずっとずっと昔からそれを伝えようとしているのですが
まったく伝わらず。(まとまっていなかったのも問題ですが)
心は折れるし、こんなことを考えている人知らないし・・・
私は「こんな人間の気持ちに添わない制度はいずれ行き詰まるだろう」と思っていて、だから悩みがなくならないし、支援してもしてもきりがないんだよ、と思ってるのです。だから支援しなくていいとは思ってないけれども。

というわけで、今夜はこの辺で。

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