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本当に昔はよかったのか

五山の送り火が終わって
朝晩が涼しくなりました。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

さて。

子育てをしていて、特に不登校問題などに首を突っ込んでいると
「昔はよかった」伝説を聞かされることがよくあります。
大家族だったからよかった
核家族じゃないからよかった
自然がいっぱいだったからよかった・・・

その伝説を聞かされるたびにうんざりする自分を顔に出さないようにするのが大変でした。

それって100年前から言われてないですか。
今の若い人たちが考えている昔というのは「昭和」だと思うんですけど
昭和の時代にも「昔はよかった」と言ってる人たちがいましたよね。
そしてその「昔」にも「昔はよかった」と言ってる人たちがいましたよね。

どこまで遡れば気が済むんでしょうか。
というか、その幻想をいつ人類は手離せるのでしょうか。

もう遡るところがなくなってしまい、今や縄文ブームです。
そこまでいかないと「本当に幸せあった時代はない」と考える人たちが増えています。
そう、人類が発展してきたこと自体の否定というか、なんというか・・・

私は核家族のような大家族のような中途半端な家族で育ちました。
基本核家族なんですけど、祖母がご飯を食べに来てたり、幼い頃はそれこそ毎週祖父母の家に預けられたり、週末は親戚の子どもたちと一緒に遊ばされたりしていました。

親は子供の面倒を見ていたような見ていなかったような状態でした。
まあ、理想的じゃないですか?親のストレス少なかったでしょうし。
でも、私はそれが良かったと思ったことはないんですよね。
もしそれが良かったと心の底から思えていたら、
今実家と離れて暮らしていないわけで。
親代わりのヤングケアラー的なことをさせられたなあと思うことのほうが多かったです。子ども時代を子どもとして過ごしたかったなあと。

長女って母親代わりをさせられるんです、放置されたら特に。
大家族であればあるほど、長女としての役割を背負わされる、どんなに小さくても。

だから村社会は嫌いだし、自然に触れあってる人たちがいい人だとは思えないんです。トラウマがすごい(笑)

祖母の「嫁としていじめられた体験」をしっかり聞いてしまったし
それこそ「姑の世話を最後まで嫌々やってる姿」も見てしまったし
恨みつらみの大きさたるや、孫の私に聞かせたくなるほどなんだからよっぽどだったと思うのです。

DVから逃げて離婚したおばさんの身の置き所のない感じとか
「あの家は・・・」といつまでも暗い話としてしか語らない両親の姿とか
子どもを置いて出て行ったいとこのお姉さんのこととか
村社会の嫌な部分を煮詰めたものを私はずっと見てきました。

だから、田舎がいいところだとか、農業やってりゃ子どもはすくすく育つんだとか、そういう嘘が大っ嫌いなんです。

あの理想は、何も気にせず育ってこられた「戦争中も被害がなく、トラウマもなく、土地があり、その家の長男が継いだ家で、何一つ後ろ指さされることのない恵まれた田舎の家」の話でしかありません。
それはいくつもの幸せな偶然が重なってできたものであって
決して普遍的なものではないのです。

それを「昔はよかった」という言葉でまとまてしまう人たちってなんだろう

大家族が幸せという幻想もそうですが、いわゆる「多産DV」だった可能性もあるのに(子どもを産むと母親の体力は消耗します)

そういうわけで、子育て界隈、特に不登校や発達障害界隈で言われる「自然の中で子育てしよう」だの「核家族はよくない」という伝説は真に受けないほうがいいと私は思ってるのですが、すっとそこに入っていかれる母親はとても多いです。(海外や山村留学を勧めてくる人めっちゃ多い)

私は、学生時代に山の中で何泊もした経験があるので、自然の中にいることが人間にとって良い効果をもたらすことは知っています。
でもそれと、「自然いっぱいの村」とはイコールではありません。「村」がいい影響を及ぼすことはほぼないです。

本当に昔が良かったのなら、なぜそれが続かなかったのか?
どうして否定されるような「今」になっているのか
そのことを考えもせず、追及もせず、短絡的に「昔に還ろう」では同じ間違いをしてしまいますよね、普通に考えて。

自然がたくさんあろうが、誰かが子育てを手伝ってくれようが
そこにいる一人の人の心の中がもやもやざわざわしていたら
そこは都会と同じなのです。
集団としてそこで、いじめが生まれることだってあるのです。

動物同士でもいじめはある。

どこにいるかが問題ではないのです。
ひとりひとりが今、どんな感情で、どんな感覚で「そこにいるか」しかない。

自然の中のほうがそういうことは研ぎ澄まされやすいですし
鍛えやすいし、自然から学ぶことは山ほどあるけれど
だからって意識的に自然の中で暮らす人はいないわけで
都会だろうが自然の中だろうが、人間関係で汲々として人は生きている。

畑を耕しながら、誰かへの恨みを募らせていることだって普通にある。

それは地球のためになりますか。子どもたちがその姿を見て幸せになりますか。それだったら都会と変わらなくないですか。昔も今も同じじゃないですか。昔田舎に存在した子どもの間引きや座敷牢はいいことですか。その闇をなかったことにはできないです。
「昔」も「自然」も何百年も前から人を引き付ける思想に過ぎないのです。それを旗印にするのをやめた時、やっと自分自身を生き始めるのではないかと私は思ったりしています。

10代の頃から50代の今まで
そこに引っかかっていく人を何人も何人も見てきました。
現実を知らないんだな、そこから目をそらしていくんだなって思ってました。
自然って自分のことなのにね。自分自身を知らないで外の自然のことばかりやってどうするんだろ。自分自身という自然をケアしてあげてほしい。

そして子どもはいつも大人に振り回される。
それも含めてその子の運命であり人生です。
だからその子が自分自身で自分をケアできるような大人になるように
幸せに育つかどうかじゃなくて、何があっても復活できる知恵と強さ(自分が自分であっていいという)を持てるように育てばいいなと私は考えています
そのためには、大人がそういうものを持っていなくちゃね!

※アマプラの中国ドラマ「三体」いいですよ。
自然破壊をする「人類」そのものがもっと大きなものから狙われてしまう。
スケール大きいし、善悪を超えてきて爽快。
生き残るってなに?みたいなのが、ちまちま「よきこと」をしようとしている私たちに刺さってくると思う

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