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書き散らし_映画観た

「ノルマル17歳。ーーわたしたちはADHDーー」観てきた

映画館に行くのは2年半ぶりくらい。職場の児童に「先生あんまり映画観ないの?」と言われたことがあるが、その通り。中学生くらいまでは毎年コナンの映画を観に行っていたけど、いつしか行かなくなった。

2年半前に映画館に行ったときは、音が大きくて上映中もずっとデジタル耳せんをつけたままだったり、売店で買ったオレンジジュースをずっと飲んでいたら脱水症状への不安で気持ち悪くなってしまって帰りにスーパーでお茶を買ったりした記憶がある。今と変わってないな。


【以下、ネタバレを含む感想】

当事者の困り感と周囲の無理解の解像度があまりにも高くて泣いてしまった

「周囲に受け入れてもらえるようになるまでは、あなたがそばにいてあげて」というようなセリフをADHD当事者である主人公が言われる場面があって、描き方的にこれは救いの言葉として描かれているのだろうなと感じたけれど、私は救いだとは感じられなかった
私たち障害者(クソデカ主語)はどこまで行っても、受け入れて「もらう」側、理解して「もらう」側で、それらを達成する努力をしないと居場所は得られないんだな、やはりこの世界は健常者仕様なんだなと思った
ひねくれている、穿った見方だと思われるかもしれないけど、ひねくれるのに十分な世界だと思っている

絃の母親、きっと絃が診断されたときにADHDについて調べまくって知識は持っていて、でも「できないこと」ばかりに目が向いて、「この子は1人ではできないから助けてあげなきゃ」と過干渉になってしまっているんだろうな、と勝手に想像している
「あなたはただでさえADHDというレッテルを貼られているんだから」と言っていたけれど、レッテルを貼っているのはむしろ母親のほうだと感じた

絃が八百屋さんで説明していた「やりたいことができなかったり、やりたくないことをやってしまったり」、朱里が姉との喧嘩で言っていた「壊したくて壊してるんじゃない」、「たまたま普通に生まれた奴がイキってんじゃねーよ」、本当にそう
世界の「普通」「標準」に無理なく適合できる人々は、そうでない人々の苦労を知らないし、そもそもそうでない人々がなんとか「普通」に近づこうとしていることすら知らず、自らの選択で「普通じゃない」生き方をしているように見えるのかもしれない 朱里が家族からそう見られていたように
私は以前の記事で書いた出来事のときに、妹に「よく自分の弱いところ平気で見せられるよね。恥ずかしくないの?」と言われたのだが、私は私なりに「普通」でいようとしていて、周囲から「普通」に見えるように、「普通」の人々と同じように生活できるかのように振る舞おうとしていて、それが破綻した結果があの出来事だった 平気で見せてなんかいない、精一杯隠そうとして、隠すために実家の人間や同居人に相談せず1人で行動した 「普通」という言葉で括られる特性や思考回路を持っている妹は、そのことを知る由もない

ただの自分語りになってきちゃった

「普通」という概念がわからない、きらい、と言いながら「普通になりたい」と願うの、わかりみが深すぎた
これは自分を投影しすぎかもしれないけど、朱里が言う「普通になりたい」は、健常者になりたいという意味ではなく(もちろん健常者になることでも解決するけど)、世界に存在を前提とされたい、ということなんだろうな、と思った
私が「普通」になるんじゃなくて、「普通」がこっちに来てくれ

学習性無力感とかいうやつのこと考えてる

上映後のトークショーで一気に解像度が下がったような感じ、なんだったんだろう

2人はこれからどうなるんだろうな
絃は同級生にカミングアウトして何がどう変化するのかな
朱里の診断を知っている朱里の家族でさえ、あんなにも朱里を追い詰めるようなことを言うんだもんな
どうか2人がこれ以上世界に絶望しませんように

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