YOUはどうしてアイドルに?──映画『トラペジウム』感想
京成ローザ10で篠原正寛『トラペジウム』を観てきたので、感想を書いておく。ネタバレがあるので注意。あらすじは以下の通り。
◆空転する熱意
地元の東西南北からメンバーを集め、4人組のアイドルグループを結成する。本作のあらすじは、上に掲げた、ラップグループ・RHYMESTER「耳ヲ貸スベキ」の一節を連想させる。
まず、東西南北に、まだ日の目を見ていない、可能性を持つ者たちがいる。東から物語がはじまり、南で「原石」を見つける。そして、主人公の行動原理を最も深く把握していたのは、西から来た者だった──。北はともかく、本作と共振する部分がある、ような気がする。
これだけならフワフワした話だが、共通点はそれだけではない。『トラペジウム』と「耳ヲ貸スベキ」には、同じような願望と欠落がある。それは、不特定多数の誰かに何かを伝えたいという強い気持ちと、その伝えるべき内容の不在だ。
「耳ヲ貸スベキ」では、曲のサビでタイトルが連呼される。「耳ヲ貸スベキ、耳ヲ貸スベキ、俺たちをよくチェックしとくべき……」。ここには、とにかく自分の話を聞いてほしい、世間に何かを伝えたいという、痛々しいまでの感情がある。ところが、その伝えるべき「何か」について、歌詞は何ひとつ言及しない。伝えるべき内容がないのに、伝えたいという熱意だけが後に残る。この中身のなさを自ら暴露するような歌詞が、曲全体に妙な迫力をもたらしているのだ。
◆人間を指で数える
『トラペジウム』もまた、これと同じ構造を持っている。主人公の東ゆうは、「アイドルになりたい」と強く願っている。しかし、彼女はアイドルにただなりたいのであって、それを通じて成すべき「何か」を持ちえていない。
この欠落を象徴するのが、公式アカウントでも紹介されている、ゆうがアイドルという職業の素晴らしさを語る場面だ。過酷な環境の中で消耗し、「アイドルを辞めたい」と言い始めたメンバーに対して、ゆうは声を荒げてアイドルの魅力を説きはじめる。
まず、彼女の口から最初に出てくるのは「キレイな服を着て、かわいい髪型をして、スタジオでいっぱい光を浴び」られる、という即物的なメリットだ。だが、服にしろ髪型にしろ、人間が幸せになるための手段であって、目的ではない。アイドルを続けることが幸福につながらないと感じたからこそ、辞めることを決意したメンバーに対して、モノや体験の豊富さを語ることは意味がない。その意味のなさを取り繕うように、ゆうはこう続ける。
この短いセリフは、その中身のなさによって、作品全体を貫く核となっている。言葉の表面とは裏腹に、劇中のゆうは、他人を笑顔にすることにまるで興味のない人間だからだ。地域の老人や、障害をもつ子どもを笑顔にできるボランティアをして、他のメンバーがその笑顔に充実を感じている時、ゆうは自分がアイドルになること、自分が幸せになることしか考えていない。少なくとも、そのように描かれている。
メンバーを指で数える描写は、人間である相手を数字でカウントできる存在と見なしていること、つまり、3人を輝かせたいと言いながら、その実、自身の目的のための踏み台としか認識していないことを表している。「南ちゃん」という野蛮なあだ名も、老人たちに対する冷たさも、すべてこの場面の空虚さを強調するために用意されたものである。
しかし、彼女も生まれつき空虚だったわけではない。小学生の頃のゆうはそうではなかったことが劇中でも語られているし、本人も自分が「嫌なヤツ」であることを客観視できている。本来、他人を尊重できない人間ではないはずなのだ。
◆列車は乗客に左右されない
では、何が彼女を変えたのか。それはもちろん、アイドル、またはアイドル業界である。アイドルを目指すゆうは友人を道具として扱い、その彼女自身が後に、業界から「使えなくなった道具」として無惨に切り捨てられる。アイドル業界では人間も企業も、他者を目的ではなく手段として扱う。この映画ではそのことが非常に丁寧に描かれている。
たとえば、房総半島から東京に向かう電車は、アイドル産業を代行する記号になっている。冒頭、ゆうは一人で電車に乗っていたが、やがて仲間たちを車内に引きずりこむ。4人が決裂すると、ゆうは電車に乗れなくなり、電車はゆうを置き去りにして目の前で発車していく。列車は必ず次の駅へ向かうが、乗客はいくらでも代わりのきく道具でしかない。それが、本作が提示する「アイドル業界」のイメージであり、ゆうはその冷酷さの標的となって初めて、それと瓜二つな自らのあり方を痛切に反省した。
ところが、この「アイドル」に対する冷酷な突き放しは、ある瞬間を境にして反転してしまう。4人が再び揃い、光を浴びながら歌った瞬間、それまでに提示された批評的な視点がことごとく洗い流され、ゆうは再びアイドルを目指しはじめるのだ。
4人が和解できるのは当然だ。たとえ友人関係が偽りのものだったとしても、ともに過ごしてきた時間は本物だし、3人はゆうの本性に薄々気づきながら付き合っていたからだ。しかし、再びアイドルを目指すことまでを当然と考えることはできない。ゆうはここまで、アイドル業界にとって自分は使えない道具でしかないこと、アイドルという目標が自分のあり方を歪めたこと、またその歪んだあり方の醜さを、痛いほど理解させられてきたはずだ。それを乗り越えてモチベーションを保てる根拠が、いったいどこにあるというのか。
これは、国家に裏切られた少年が政治家を目指すとか、銀行に恨みのある少年が銀行員になる、という話とは訳が違う。アイドルはプレイヤーではなく道具なので、内部に入り込んだところで、業界を内側から変えることはできないからだ。何でもできるように見えた国民的アイドルでさえ、仲間に対する性虐待どころか、グループの解散さえ止められなかった。自分の夢に中身がないと気づいた終盤のゆうにとって、アイドルを目指すことは、今までの自分の過ちを反省せず、これからも業界に従って、自分が楽しむためだけに、他人を道具として見続けていくことを意味する。それなら彼女は、アイドルという列車から降りることで、自分の足で大地を歩くことで、この映画の幕を閉じるべきではなかったか。
◆光と歌に敗北する
これは1946年に作られた「ショウほど素敵な商売はない」という曲の歌詞だが、YOASOBIの「アイドル」や本作の主題歌と比べて、内容の方向性はほとんど変わらないように思える。一見輝いて見えるショウの世界はウソの世界で、本当は残酷で、人間を不幸にするかもしれない。そんな現実を認識しながらも、それでもスターでありたい、光を浴びながら歌いたいと、必死に役を演じる姿を、安全な観客席から見て感動する。少なくとも50年前には、もうこの型は出来上がっていたのだろう。
残酷な現実をあえて受け入れて、笑顔で役割を果たす。それは、ある種の観客が過ごしてきた、またはやがて過ごす人生そのものでもある。彼らはアイドルという鏡に映る自分の人生を見て、自分の人生に感動している。それはそれで悪くないが、そういう期待に応えようとすると、主人公は本当の意味で燃え尽きられなくなる。観客は映画館を出た後も人生を続けてゆくからだ。
世界の残酷さを受け入れた上で、物語を明るく終えるために必要なのは、光と歌である。これはアイドルという存在の本質であり、本作のファーストショットで、車窓から漏れる光の中で音楽を聴いていたゆうにとっての核でもある。この二つの装置によって、一度絶望したはずの主人公は、人生に何らかの中身が加わったかのような顔をして、ハッピーエンドを迎えなければならないのだ。
ゆうは一度、自分の空虚さを直視し、真っ白な灰になって燃え尽きた。アイドルとしての彼女は死んだ。にもかかわらず、観客を満足させるために、光と歌によって強制的に蘇生され、笑顔のゾンビとしてその後の人生を歩まされている──。私にはそんな幻覚が見える。この幻覚が残り続ける限り、決してこの映画を褒めることはないだろう。
*1 https://beatles.hix05.com/Musical/musical45.show.htmlより一部改変して引用。