『タコピーの原罪』で東くんだけ回想シーンが挟まれた理由(『罪と罰』、『おやすみプンプン』、藤本タツキとの比較)
■なぜ東くんだけ丸々一話回想したのか
『タコピーの原罪』(以下『タコピー』)第9話「大丈夫」は、明らかに作品内で浮いている。
『タコピー』が持つ魅力の一つは、短い話数の中で物語がポンポン進んでいくそのスピード感にある。最初から上下巻で完結することが決まっていたこの作品には引き伸ばしというものが存在せず、普通のマンガなら1話まるまる回想シーンが挿入されていそうな場面でも、読者が状況を理解できる最低限の回想を1ページか1コマだけ挟んで先へ進む。
これは間違いなく意識的なもので、主要な登場人物であるタコピーやまりなやしずかは、まだ幼いということもあるが、(例外的な第12話を除いて)過去を振り返ることがない。まりなの家庭には幸福な時代があり、しずかとお父さんが一緒に過ごしていた時期もあったはずだが、この作品でそれが映像として示されるのはそんな時代があったことを連想させる1コマだけで、ストーリーのある場面として振り返られることはない。この見事な「回想な切り捨て」が、テンポ良く話を進行し緊張感を保つことにも繋がっていたのだ。
ところが、第9話ではこのテンポが明確に壊れている。ページの大半が東くんの回想に割かれていて、作品のメインであるタコピーとしずかちゃんの時間はまったく前に進んでいない。しかも、東くんのバックグラウンドはこの時点で既に十分描かれていた。優秀な兄にコンプレックスを持っていたこと、母に褒められることを強く欲しているのにそれが叶わないこと、そんな家庭環境が原因で自己嫌悪に陥っていること……。この先のストーリー展開に必要な要素は全て揃っていた。だからこの第9話は、ほぼ全編、『タコピー』の本来のスピードなら省略されて当然の部分といえる。
だから、ここに東くんの過去の回想が入っていることには、作者であるタイザン5の明確な意図がある。連載前に徹底的に構想が練られたであろうジャンプ+の短期連載においては、無意味で不必要な回は存在を許されないからだ。
では、それはどういう意図なのか。
■悪趣味でステレオタイプな虐待描写
その回答に入る前に、『タコピー』について、筆者が気になっているもう一つの謎を挙げておく。
それは、『タコピー』の虐待描写が、迫力はあっても「リアル」なものでは無いということだ。
この点にかなり早い段階で言及したのはブロガーの小山晃弘(狂)で、彼はnoteで『タコピー』における虐待・いじめ描写を「薄っぺらい偏見の切り貼り」だと表現している。
そして小山は、その「薄っぺらい偏見」の中でも特に、「虐待する親に育てられた子どもはその性質を受け継ぐ」という描写に対して懸念を示す。
ここで言われている「虐待の連鎖」神話とは、虐待された子どもがまたその子どもを虐待するというステレオタイプが、学術的な研究では必ずしも肯定されておらず、むしろその逆の結果すら示唆されている場合すらあるのにも関わらず、常識に近い考え方として流通し、それが差別や本人の思い込みによる予言の自己実現につながってしまっているような事態を指している。『タコピー』の描写を「リアルだ!」「これが現実!」と無邪気に称賛する行為は、この神話の形成に手を貸すことになる。だから受け手は配慮するべきであるという主張だ。
この小山の主張は『タコピー』自体の描写というよりもそれを無批判に受け取る読者の態度への批判に主眼が置かれたものではあるが、『タコピー』における虐待描写にステレオタイプ性が存在するということは事実として否定できない。
だが、作者であるタイザン5は、なぜこのようなステレオタイプな虐待を作中に描いたのだろうか。
もちろん、単にタイザン5が悪趣味だったという可能性もある。実際、『タコピー』の虐待描写に対しては、それが「舞台装置の全てが基本的にキャラクターを不幸にするため(作者の目的を叶えるため)に誂えられている。泣かせたいから泣かせる、不幸にしたいから不幸にする、という組み立て」「キャラも設定も、全部胸糞悪い展開を作る装置」に見えるという否定的な感想(というより「だから私には合わない」という意思表示)も寄せられている。これはタイザン5が「キャラが不幸になるところを描きたくて」ステレオタイプな描き方をしたという見方だ。
また、前出の小山は『タコピー』を「一種の楽園追放を描こうとしている」「無垢な存在として生きられない人の業とでもいうべきものにフォーカスを当て」た作品であると見て、その上で、
と苦言を呈している(1/8時点に出た記事なので解釈が変わっている可能性もある)。これはタイザン5が「楽園追放」というテーマを描くための装置の一つとして虐待描写を用意したという見方だ。
筆者は、これらとは違う見方を提示してみたい。そしてそれが同時に、東くんだけ回想シーンが挟まれた理由の説明にもなるはずだ。
■過去作に共通するもの
タイザン5が虐待描写を通して描きたかったものは何か。それを考えるために、ここではタイザン5の過去作にさかのぼる。
タイザン5には『タコピー』以前に短編が4つある。そのうち政治部門に応募した「同人政治」という例外を除いた3つの作品:「讃歌」「ヒーローコンプレックス」「キスしたい男」では、共通するある一つのテーマが貫かれている。
これは、同じジャンプ+から登場した作家である『チェンソーマン』の藤本タツキのそれと比較するとわかりやすい。
タイザン5の短編「キスしたい男」と、藤本タツキの短編「佐々木くんが銃弾止めた」は、主人公が行動を起こす動機が非常に似ている。主人公はどちらも一人の女性を異常に神聖視している中高生の少年で、「佐々木くんが銃弾止めた」では、その女性が他の男性とセックスするのを防ぐため、「キスしたい男」では、その女性とキスするために行動を起こす。
そこでとる行動が異常なことも似ている。「佐々木くんが銃弾止めた」では、タイトル通り、主人公は先生をテロリストから守るため、手で銃弾を受け止めようとする。「キスしたい男」では、主人公はアンジョリーナジョリーとキスするため、ハリウッドへ行く旅費を稼ごうとして高校に行かずに働く。
だが、そこからの展開は真逆だ。
「佐々木くんが銃弾止めた」では、主人公が本当に銃弾を止めてしまう。そして憧れの女性のこのようなセリフがリフレインされる。「この世界に0パーセントなんてなくてね。みんなは物凄く小さい確率をめんどくさいから0パーセントにしているの」。この言葉の後、主人公は非現実的な夢だった月面着陸も叶える。ここでは、人間の思い込みや可能性、普通でない考えが肯定的に描かれている。
一方、「キスしたい男」の主人公は、異常な行動を取り始める前に付き合っていた元カノに、アンジョリーナジョリーとキスしたいという夢を、本当にやらなきゃいけないことから逃げる口実にしていると指摘され、次のような言葉をかけられる。
この後、主人公が次々とパートナーを変える母親のもとで劣悪な育てられ方をしたこと、その母親が風呂で溺死したこと、周囲から「親殺し」と噂されたことが明かされ、主人公はこのような現実から目を逸らすためにいびつな夢を見ていた……と読者に思わせるような描写が展開される。そして、物語のラスト。主人公はアメリカに行くのを辞めて、元カノのところに戻る。そこで彼女から、「ハリウッドはいいの?」と聞かれ、主人公は、「うん、イオンでいい」と答える。
他の短編でも、同じことが描かれている。人類がほぼ滅びた世界を舞台にした「讃歌」は、生い立ちから他人との触れあいを求める気持ちを失っていた少女が立ち直り、人との出会いを求めて旅立つまでの話だし、漫画家として成功した弟に強いコンプレックスを持つ男が主人公の「ヒーローコンプレックス」も、弟との交流を経て平凡な自分を肯定できるようになるまでを描いている。
つまり、タイザン5の作品の中で共通しているもの、それは、「平凡で真っ当な人生の肯定」なのだ。
■影響を受けた作家
「平凡な人生を肯定するのって、メインストリームのエンタメはだいたいそうなんじゃないの?」と疑問もでそうだが、タイザン5作品のそれの描かれ方は、少なくとも少年漫画としてかなり個性的だ。
『ドラゴンボール』や『ワンピース』のように、主人公が世界でも稀な強さを持つまでに成長するバトル漫画とはもちろん違う。どちらかといえば、いわゆるサブカル系の漫画、タイザン5自身がインタビューの中で大好きな作家と公言している浅野いにお的なそれに近い。
タイザン5が浅野いにお作品の中で一番好きなものとして挙げている『おやすみプンプン』には、終盤とはいえ「ファンシーな姿をした主人公が少女のために殺人を犯してしまい、逃避行がはじまる」という『タコピー』とほとんど同じ構図の展開もある。ネット上でも第4話が公開されたあたりですでに「似ている」という声が多数見られた。
そして、浅野いにおに影響されたタイザン5の、「平凡で真っ当な人生の肯定」の描き方を象徴するようなコメントも、「作品作りで、常に変わらず芯になっているもの」に対する回答として、同じインタビューに掲載されている。
ものすごい悪役がいない、スカッとした結末を描けないというのは、勧善懲悪が徹底された子供向けバトル展開の無い普通のエンタメではほとんど当たり前のことで、この答えはほとんど何も言っていないのと同じ……と見えなくもない。
だが、実はこの答えは、同じ「(最終的には)平凡で真っ当な人生を肯定している」作品の中でも、浅野いにおやタイザン5が特殊な立場にいることを示している。
■敵の不在
浅野いにお的なものと対立するものとして、平凡で真っ当な人生を否定するような考えを否定することによって、遠回しに平凡で真っ当な人生を肯定するような作品がある。
この路線にはポピュラーな二つの構図が存在する。
一つは、『幽☆遊☆白書』の仙水や『デスノート』のライト、『チェンソーマン』のマキマのような、「より良い世界を作るために」人殺しをするキャラクターを敵として設定し、それと戦う姿を描くことで日常を肯定するもの。
そしてもう一つは、なんらかの真っ当な人生を馬鹿にするような考えをもとに罪を犯し、殺人に関わってしまった主人公が、その罪を反省して罰を受けるまでを描いたものだ。タイザン5が好きな映画として挙げている『トレインスポッティング』もその一つ(だと私は思うの)だが、この路線を代表するのは何といってもドストエフスキーの『罪と罰』だ。
酷い環境にいて、何が善で何が悪なのかも分からなくなってしまったような主人公が殺人を犯す。その殺人の発覚をめぐってサスペンス的な展開が起きた後、善良な人物からの言葉で人間性=「平凡で真っ当な人生の肯定」を回復した主人公が、自ら罰を受ける……。『タコピー』はまだ完結していないが、物語としてはこの『罪と罰』とほぼ同じ構図になるはずだ。
だが、両者には大きな違いがある。それが、インタビューで示された「敵の不在」だ。
『罪と罰』が名作として扱われた背景には、それが書かれた1866年の社会状況がある。当時のロシアは、閉塞した社会の中で社会主義や民族主義が盛り上がり、そのためなら命を捨てるのも惜しまないという若者がたくさんいて、それは主流派だった。そこでは、たとえばキリスト教が説くような「平凡で真っ当な人生の肯定」などは、革命をしない反動、戦場に行けない腰抜けの考えであり、ヘドの出るようなお説教でしかない。
『罪と罰』は、そんな世間の風潮に真っ向から立ち向かい、「平凡で真っ当な人生の肯定」を魅力的に描くことのできた数少ない作品の一つだった。だからこそ意味があったし、社会主義や民族主義の盛んだった昔の西欧や日本で熱烈に受容された(のかもしれない。筆者にドストエフスキーの専門知識はない)。そしてそれは、世間の価値観と戦って倒すという意味で、ある種敵を倒してスカッとする話でもあった。価値観が少年マンガでいう敵の代わりになっていたのだ。
しかし、いまの日本において、「平凡で真っ当な人生の肯定」と対決できるような主義は存在しない。だから、『タコピー』や『おやすみプンプン』は『罪と罰』と同じことはできない。革命を目指す人間が多いから日常の肯定が輝くのであって、世間も政府も大学生も日常を肯定している世の中でそんなことをしても1ミリも魅力的ではない。
そこで生まれるのが、『おやすみプンプン』的な自己嫌悪の物語だ。このタイプは、作中で『罪と罰』に触れたりしながらも、「平凡で真っ当な人生の肯定」そのものは描かない。女性との恋愛や社会生活を通して強い自己嫌悪を持ち、自殺を図る……がそれも失敗し、僕、罪を背負ったまま生きていかないといけないんだな、トホホ……という非常に消極的かつ遠回りな「平凡で真っ当な人生の〝受容〟」が行われるだけで終わる。対決するべき価値観を持たない『罪と罰』は、自己嫌悪に悩まされながら消極的に人生を受けいれる話にしかならない。
もはや、具体的な敵も、対決すべき価値観も不在で、スカッとする話は書けなくなってしまった……。タイザン5と浅野いにおは、そんな世界観で共通している。
■善意の連鎖
ただ、『タコピー』と『おやすみプンプン』の間にはかなり大きな違いがある。『タコピー』および他のタイザン作品は、戦うべき相手が誰もいないにも関わらず、「平凡で真っ当な人生」を思いっきり肯定して、スカッとする話にしてしまっているからだ。
しかし、なぜ、浅野いにおに近い世界観で、スカッとする話を展開できるのか。
それを可能にしているのが「虐待の連鎖」ならぬ、「善意の連鎖」の描写だ。
タイザン5作品では、誰かが善意を持って、相手を思いやって接すれば、それは報われることになっている。弟が兄を思いやれば兄のコンプレックスは浄化されるし、国語教師が生徒を思いやれば生徒は前を向いて歩くし、元カノが元カレを思いやれば元彼は現実を選んでくれる。殺伐とした世界観のわりに、「誰かに良いことをすれば良い影響を与える」という道徳の教科書のような因果関係が存在している。善意が連鎖するものとして描かれている。
そして、この「善意の連鎖」がある限り、「平凡で真っ当な人生の肯定」は保証される。平凡で真っ当な人生を送れば、それが誰かに伝わって良い影響を与えるのなら、それは社会にとっても自分にとっても意味あることだからだ。良く生きることが良い結果につながるからだ。
■描写の理由
馬鹿みたいに聞こえてしまうが、『タコピー』の中で描かれているのは結局この「善意の連鎖」だ。
この作品における「善意の連鎖」は、東くんの兄・潤也からはじまる。第10話で潤也に善意に触れた東くんからタコピーへ、タコピーからしずかちゃんへと善意が伝染していく。善意に触れた人間は、自分の罪と向き合い、涙を流し、真っ当で平凡な生活に向かっていく。
そして、この「善意の連鎖」の起点である潤也は、100%の善人でなければならなかった。それまでのタコピーの善意が実らなかったのは、相手の姿をしっかり捉えずに、「助けてあげよう」という自己中心的で中途半端な善意だったから。一方、潤也のそれは、相手を思いやる完璧な善意だから通用する。そのような描き方をしなければ話の整合性がとれないからだ。
だから、『タコピー』には、どこかの段階で潤也を根っから善良な人間であると示しておくシーンが必要とされた。第9話の回想は、潤也が優秀で闇を抱えていない100%の善良な存在であることを読者に記憶させるものだったのだ。
同じ観点から、虐待描写のステレオタイプ性も説明できる。
12話でのまりなちゃんに対するタコピーの発言を筆頭とする、「虐待の連鎖」神話を強化するような描写は、「善意の連鎖」を描くための裏返しの表現だ。善意に触れた人間が善意に染まるなら、悪意に触れた人間は悪意に染まる。『タコピー』においての悪意の起点は大人たち全般だが、とくに暴力を振るうそれのスタート地点は、まりなちゃんの母だ。
『タコピー』では違う人物の同じ行動を同じ構図で描くことで類似を強調するという手法が多用されている。そして、暴力をふるうシーンにおけるその類似は、まりなちゃんの母→まりなちゃん→しずかちゃん→タコピーと連鎖していく。この暴力は、潤也からはじまるそれと対をなすものになっている。この負の連鎖は、その後にはじまる「善意の連鎖」の説得力と魅力を明確に引き立てている。
結局、東くんの回想の不自然さも、虐待描写のステレオタイプ性も、「善意の連鎖」を描くためのものだった。みんながほどほどに悪くて、ほどほどに悪くない、明確な敵のいない世界の中で、「平凡で真っ当な人生」を肯定するための舞台装置だったのだ。
■結論
『タコピー』は、『罪と罰』や一般的な少年マンガのようには明確な敵を持たない、浅野いにお風の世界観を持っている。しかし、にも関わらず、「平凡で真っ当な人生」を強く肯定する展開を描けている。それは、虐待や暴力の負の連鎖と、潤也からはじまる善意の連鎖の描写によって構築された「善意の連鎖」を土台にした価値観あってのものだった。
筆者が作中でもっとも魅力を感じたシーンは第10話でしずかちゃんが「何言ってんの今日から夏休みだよ」とタコピーの倫理的な問いかけを一蹴したところだった。それはタコピーの善意と、それを信じないしずかちゃんの二つの価値観がどちらも魅力的に並列に描かれていたからこそ生まれた場面であり、この作品の肝はそこにあった。敵を倒してスカッとすることができない世界観の中で、なんとか魅力的な「平凡で真っ当な人生の肯定」を描こうとした結果がこれだったのだろう。
『タコピー』は「善意の連鎖」と「虐待の連鎖」が戦い、前者が完勝する様を描くことで、「平凡で真っ当な人生」を肯定する話だったのだ。
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