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社会経験のない人間が教育業に携わることへの批判

今回はサッカーという単一スポーツのことではなく、いや、スポーツという一分野だけに関わる話ではなく、学校教育に関する話をしたいと思います。


先に答を言っておくと、私は少し学校教員びいきです。


さて、タイトルどおりの批判がここ数年メディアを通して、教育業に携わった経験がある人からも無い人からも聞かれます。


私自身も株式会社でサッカーを教えていた経験や個人事業主として英語を教えていた経験があるので、この現状に批判的な意見を持つ人たちの気持ちは分からなくもありません。


「学校(大学)を卒業してそのまま(自分が教鞭をとる)学校に入ってきた、世の中のことを分かっていない人間(教師)が他人(生徒)に物を教えることができるのか」

という使い古された言葉をもって教員の皆さんを否定的に捉えるのは、例えば塾の講師やスポーツのインストラクター、音楽や芸術関連の先生たちが、純粋に教育界というものだけでなく「営業をしないと、あるいは業績を上げないと給料が上がらない、もっと言えば会社が回らない」といった商売における不変の戦いの中にも身を置いているからでしょう。


私自身にも

「そんなの社会に出たら通用しないぞ」

と、主に生徒(選手)のネガティブな態度や言動を叱咤するときに聞かれる、学校教員の言葉を少しユーモラスに感じてしまういやらしさがあります。


私としてはその場面ではぜひとも

「そんなの学校では通用しないぞ」

あるいは

「俺には通用しないぞ」

という言い回しで説教をしてほしいと思っています。


現在の世のブラック企業がどれくらいブラックかは、勤め人をやめて10年以上の月日が経つ私には分かりかねますが、多くの教員の労働環境こそブラックであり、その教員が作る世界で生活する多くの生徒たちの環境もまたブラックであります。


これは家庭とも実社会とも違う第三の空間になります。

(20年近く前に少しだけ勉強した程度なので今の定義は詳しく分かりかねますが)スポーツ社会学で言うところの部活動やクラブでの活動の時間も同様です。


この「社会では通用しないぞ」ではなく「学校では通用しないぞ」「俺には通用しないぞ」は、よくないことをした選手(指導対象)を戒めるときによく使う魔法のワード

「おまえのためを思って言っている」

に似ています。


私はそのようなシチュエーションでは

「俺を含めた組織の利益のために言っている」

とはっきりと伝えます。


組織の利益のためのルールやエチケットがあり、定められたその枠組みの中でなら自分なりの楽しさを見つけることができる、ところまでが個人の権利です。


私自身の学生時代は氷河期世代の「マジでヤンキーがもてる」風潮まっただ中だったので、校則違反をして「個性をアピールする無個性」、「フツーや嫌だというフツーの考え」をもろにやってしまった反省があるので偉そうなことは言えませんが、個性をアピールするならマナーから外れた言動や見た目で、ではなくルールとマナー内の言動でしてほしいものです。


というわけで学校教員の皆さんはぜひ堂々と「今現在我々が活きているこの特殊な世界(学校)ではそんなの通用しないぞ」といった態度を取ってほしいと思っているのですが、これは結局「社会経験のない者が『社会に出たら』云々を語る資格がない」という意見と同じで、ただ単に言い回しを変えただけではないか、とも取られてしまいそうですが、百歩譲って「資格がない」発言に関してはその通りだとしても、そもそも学校教員に社会経験が無いことを私は“悪し”としていません。


そもそもこの批判をしている側もせいぜい2、3の企業での就業経験がある程度で、その狭い業界内でしか通用しない「社会経験」しかない可能性が大いに考えられます。

あるいは多くの職種を経験しているうえでのこの批判的態度であったとしても、一つの場所に長く務める「経験」も無いくせに、といったツッコミどころはあります。


結局この態度にはマジョリティーに回った自分を肯定したいがために、マイノリティーを貶める差別の構図と大差ないものがあり、ここに「社会での通用のし方」の方が「学校での通用のし方」よりも尊いという厚かましい価値観が透けて見えます。


前述した「業績関係なしに給料がもらえる」といった態度には、お金を稼ぐことが偉い(現実的にお金は稼がないといけない、ではなく)といった価値観があると言ったら言い過ぎでしょうか。


私にはすぐに極論や理想論を思いつく嫌いがあることを私自身自覚していますが、実社会での通用のし方(巡って「生活するためにお金を稼ぐ」ためのマナー:ここには方法という意味も含まれています)を無視して幼稚園時代から、いや、それよりも前から大人たちに教わってきた人生の流儀を、学校の先生が押し通すことを悪いことだと思っていません。


幼稚園時代よりも前から教わってきた流儀とは言ってみればきれいごとや理想論のことになりますが、それらを悪いものと嫌うどころか、教員の方たちにはぜひそのきれいごとを押し通してほしいとさえ思っています。


むしろ勉学を楽しむために通うという本来の目的と異なり、就職の強さをセールスポイントにして高校生とその親たちにアピールする商売に成り下がった現代の大学の振る舞いにこそ行儀の悪さを感じています。

果たしてこの態度に不純さを感じている人がどれくらいいるでしょうか。


これには大いに学歴社会の矛盾が背景にありますが、働き方に対する価値観が変わりつつある中、この先大学の存在価値も変化していく可能性があるものの、少なくとも平成終わりたての現在の日本社会では(日本だけではありませんが)入学するのが難しい大学の卒業者や卒業見込み者の方がそうでない者に比べて希望する企業に就職しやすいといった現実があります。


中卒や高卒より大卒、も同じです。

学生の勉強の出来と社会人の頭の良さは異なる、と多くの人が認めているにもかかわらずです。

遊ぶことより働くことを選んだ労働意欲の方が、受験勉強から逃げないで頑張った我慢強さを重視しています。(どちらも全員に当てはまる動機ではありませんが)


細かくは一冊の本をかけてしまうくらい長くなるので割愛しますが、以前にも書いたように、日本社会の幸せを保つためにこの仕組みと態度が一役を買っていると私は思っているので、これ自体を私は否定していません。


そしてその後の社会生活で幼いことから教わってきたきれいごと、「幸せはみんなで分け合いましょう」や「弱者を助けましょう」の精神が勝利至上主義の経済社会ではあまり役に立たないこともよく分かります。


が、AIによる仕事の効率化が少なくとも今現在の「よって人員削減」ではなく「よって(従業員数も賃金も変えずに一人当たりの)仕事量を削減」になる時代が来るまでは(来なそうですが)、ギリギリの年齢まで「学校の理屈」「理想論」を、この際「社会に出ていないこと」を反対に開き直って、誇れる武器だということにして、ぜひとも教員の皆様には押し通してほしいと、私は願ってしまうのです。


勝った負けたの欲深さは「勝てば勝ち点3、分け合えば(引き分ければ)お互いの勝ち点を足しても2」の我々スポーツ界に任せておきましょう。

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