日本の現状理解のための徳川幕府の社会遷移の概説#1~元禄バブルまで~
私は現在の日本社会は政治行政に限らず産業、経済や道徳、教育に至るまで社会のあらゆるシステムが停滞と機能不全に陥りつつあり世界の潮流から大きく遅れを取っていると感じています。これは私に限らず多くの皆さんがイメージとして共有しているでしょうがその中でも私は特にリーマンショック以後のここ十数年でその傾向はさらに揺るぎないものになったと考えています。
停滞しているものの一つとして挙げられるのが気候変動、温暖化対策です。かつて日本は家電の省エネ技術や国内の公害対策などで環境問題対策に大きく貢献していて、1997年の京都議定書の様に世界でもその先端を走っていましたが近年の化石燃料からの脱却や自動車のEV化、水素エネルギー開発などで中国や韓国を始めとする新興国やアメリカ等の超大国はもとより欧州各国にも大きく後れを取りました。
経済、教育のデジタル化の遅れや少子高齢化対策の不徹底、ジェンダーギャップ是正等でも日本社会の改革ペースが依然と比べて大きく低下していることはほとんど周知の事実だと思います。
問題はこの大停滞を招いた元凶が一体何であるかということです。これに関しては人によって様々に意見が分かれていて、ある人は長期政権で腐敗が進行した自民党の安部・菅政権を糾弾しますし、ある人は分裂していて明確な対案を示せない弱小野党を槍玉に挙げます。またある人は利権にしがみついて改革に強硬に抵抗する産業界や官僚を主犯とします。
これらの議論はいずれも全く的を外しているわけではなく責任の一端があるのは事実ですが、彼らはむしろ改革の停滞の結果生み出された副産物であり主要因そのものではありません。従ってこれらをスケープゴートにしてバッシングにエネルギーの全力を注ぎこむことは問題の解決に全く役立たないどころか社会の分断をさらに深刻にして事態を悪化させることに繋がりかねません。
今我々がすべきことは社会の悪弊の根源を探し出してその抜本的な解決のためにどのように実効的な対策を行うかということであると僕は考えております。
その肝心の主要因について述べさせていただきますと以前にも述べましたように日本社会の在り方、日本国の統治システムそのものが機能不全に陥って時代に合わせて柔軟にその形を変えることが出来なくなっているということに尽きます。
日本の統治システムどの部分がどう劣化してことによって社会改革を司る機能が損なわれたかについては様々な要因が複雑に絡みあった結果ですのでその詳細は次回以降に説明させていただくとして今回はその複雑な分析の手始めとして歴史に学び、徳川幕府の国家システムが劣化していき幕末期に達するまでの過程を示したいと思います。
徳川時代は日本文化の大部分を形作った時代であるとともに、幕末はご存じの通り260年続いた徳川幕府の封建体制の限界が露呈して西洋の近代国家を参考にした新体制を樹立しようという動きが出てきていた時期で現在の日本社会と大きな共通点があります。
1603年に徳川家康によって開かれた徳川幕府ですが初めから一般に想像されるような天下泰平の江戸時代であったわけではありません。もともと軍事組織であった幕府は天下統一の後も武力によって大名を脅して言いがかりに近い理由で改易したりというような武断政治が行われていました。戦国の世の荒々しい気風もまだ色濃く残っていた時代であり粗相をした奉公人はどんな理由であっても問答無用で切り捨てられるという今ではとても考えられない殺伐とした世相であったと伝わります。
このように江戸時代の初期は幕府の強大な武力を頼りとして反発を押さえつける軍事政権でありました。武断政治の副作用は深刻で改易された諸侯の家臣は勤め先を失って牢人となり治安が悪化しました。生まれる時代が遅かったために立身出世の夢を絶たれた被支配層が旗本奴や町奴として跋扈するのもこの頃です。
この時代は徳川家が天下を取って間もない時期であり、機会さえあれば再び独立を画策するかもしれない大名や寺社勢力、朝廷の力を弱めて幕藩体制を確立する必要があったとはいえ、力で押さえつけるだけの支配が大きな反発を生むことはいつの世も同じであります。事実、由比正雪の乱で知られる慶安の変や承応の変などの二度のクーデター未遂、島原の乱を始めとする大規模な農民反乱も起こり幕府は武断政治の限界を悟ります。
三代将軍家光の代までに参勤交代や宗門改め等の大名や庶民を統制する制度が完成したこともあり四代家綱からは文知政治への切り替えが始まります。これは寛大な統治を約束するとともに人民を啓蒙して謀反を防ごうという政治思想です。ここに徳川幕府の政治体制は大きな転換点を迎えたと言えます。生類憐みの令で知られる五代綱吉は儒教による徳治を推し進めるとともに寺社改築に多額の出資を行って公共投資が増大しました。この頃には社会全体の安定により人口が増加して経済も以前以上のペースで成長しました。商人主体の華やかな文化として知られる元禄文化はその象徴であり元禄バブルとも言われます。
稀代の悪法とも言われた生類憐みの令ですが、適用があまりにも厳格であるという欠点はあるにせよこれまで食料や虐待の対象としてしか見られていなかった犬猫を保護して愛玩する文化を育んで日本人の道徳を大きく向上させたということは大いに評価するべきだと思います。
また統治システムに話を戻すと、大きな反発を押し切ってこのような政策を断行できたという事実はこの時代の将軍の権力の大きさを伺い知ることができ将軍専制体制が頂点に達したということも分かります。
元禄バブルはバブルとあるように当然その後に弾けて高度成長時代が終わり、深刻な不況が日本を覆います。それと同時に今まで成長に覆い隠されていた社会システムの歪みが顕在化します。その代表的な例が米本位制による武士階級の困窮です。
徳川時代の貨幣というと関東の金や関西の銀、銅銭などが思い浮かぶと思いますが実はそれらは経済の主流ではなく当時の日本は米を貨幣として流通させる米本位制というシステムを採用していました。米本位制は年貢として農民から回収した米を支配階級である武士が自分たちで消費する分を除いて市場に流すことによって機能しており米の市場への売却を代行する札差という商人が大きな力を持ったことも特徴です。
その米本位制がなぜ武士の困窮に繋がったかというと元禄バブル期の米価安の諸色高と呼ばれる特殊なインフレに起因します。商人や町人の地位向上やに伴う経済成長により元禄期は大幅なインフレが発生しました。ところが、米だけは新田開発や人口増加の終焉、貨幣経済の浸透により需要がだぶついて価格が下落し続けました。
そのため米の石高が所得に直結する武士は実質的に所得が目減りし続ける状況に陥り下級武士や旗本の生活は困窮します。一方米流通を担った札差は武士への借財も手掛けるようになって繁栄します。
さらに悪いことに、年貢を税収の大部分に占める幕府も財政が悪化して武士全体の地盤沈下が進行して徳川幕府の支配体制は早くも根底から揺らぎ始めます。この窮状を改善すべく大規模な構造改革に乗り出したのがあの八代将軍吉宗ですが続きは次回にしたいと思います。
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