⚖ 6年+本人訴訟 【19】~「3つの約束」等,要望した尋問をせず,「うつ伏せで排便」を肯定した,飯塚圭一裁判官
本連載【17】【18】に続き,飯塚圭一裁判官による【訴訟2】での,本人尋問の対応実態についてです。
1 私が作成・提出した尋問事項書を無視
私に対する主尋問は,(本人訴訟で代理人がいないため)飯塚圭一裁判官が担った。
私は,事前に,自分への質問で明確化してほしい内容を,100問程度挙げた,尋問事項書を作成・提出していた。
中でも,【学校の相談対応体制】【初回面談時の3つの約束】を最重要視し,最初の質問事項とした。(↑ 冒頭画像)
しかし,飯塚圭一裁判官は,【学校の相談対応体制】【面談時の3つの約束】について,何らの尋問も行わなかった。
(※蛇足ではあるが・・・その一方で,私を見て,「若く見えるなー」とつぶやいた。)
2 尋問事項にない「股間を叩かれた件」について尋問
私は,面談後の,副校長らの対応を争点とし,その結果として,「不当に不合格」という二次ハラスメント(被害)を受け,精神的苦痛を長期間受けた挙句,不当に退校という損害を受けた旨を訴えていた。
「股間を叩かれた件」は,校内相談のトリガーとなった事件ではあるが,それ自体を裁判で訴えてはいなかったにもかかわらず,飯塚圭一裁判官は,叩かれた際の状況について追及してきた。
私は,「なんで?」と疑問になったと同時に,叩かれた際の衝撃が蘇り,思わずこみ上げてくる涙を堪えながら回答したものの,大いに不信感が残った。
(この筋違いの尋問を受け,私は「飯塚圭一裁判官は陳述した書面を見てもいないのでは?」と不安になり,その後,一ヶ月程,缶詰状態になり,訴状から第4準備書面までの主張を,同尋問結果を踏まえ,最終準備書面を作成・提出した。)
【!ポイント!】
ちなみに,退校後,「股間を叩かれた」際,コンビを組んで練習していたYさんに,その際の状況を確認してもらった。
利用者をベッド上で「うつ伏せ」にして排便させる・・・
よほどの事情がない限り,「ない」はずである。事実確認を行わなかった副校長らの,杜撰な対応実態が,浮き彫りになった,と判断する人が大多数ではないだろうか。
飯塚圭一裁判官が,「(原告であった私の)準備書面さえ読まず,真実相当性を検討せずして判決した」と想像するのは,私だけ?
3 私から副校長への反対尋問の途中で,「終わり」とした
私から,副校長への反対尋問にあたり,私は,事前に相当な準備をしてのぞんだ。
「除籍で退校」とされてから,既に4年半近くが経過していたとはいえ,副校長との「対峙」には,抵抗があった。できるなら,一生関わりたくなかった。
それでも,【訴訟1】で出された副校長の陳述書から,副校長に対応上の違法があった事実は明白で,同事実に端を発して,私は二次被害,三次被害・・・と連鎖・発展して被害を受け続け,結果,訳がわからない状態のまま退校を強いられていた事実は,もはや疑いようがなかった。
「訳がわからないこんな自分が悪い」と自死をのぞむ状態から脱すとともに,「自分には,副校長らを訴え,説明と謝罪,そして賠償を求める権利がある」と確かに思えた。
その年(令和4年)の春,私は,「笑っている」自分にハッとし,「4年以上もの間,自分が笑いを失っていた」コトに気づいた。睡眠障害は相変わらずだった。頻繁に目を覚まし,「ああでもない,こうでもない」と,枕元に常備した紙に,記憶や考え方等をメモしては,熟睡できないまま朝を迎える毎日だった。裁判2年目からは,右目の視界が一部欠損し始めてもいた。長期化している裁判に,疲弊していた。
けれど,「ムダではなかった」と思った。
「核心である副校長と対峙できなければ,一生,苦悩は続く」
再度はそう考え,持てる力を振り絞った。
事前に,何度か,地裁に出向き,「本人尋問」を傍聴してシュミレーションし,酷暑の中,一人,アパートで汗だくになりながら,法廷での副校長との対決に備えた。
とはいえ,ド素人の,初めての経験―—―
「はい,いいえ,で答えてください」と,冒頭でお願いしたにもかかわらず,副校長は,Qの趣旨に逸れた説明をズルズル・・・と答える等して,スムーズとはゆかなかった。
また,飯塚圭一裁判官は,そんな副校長に注意するでもなく,基本的に静観していた。
そんな中,唯一,「約束①についての虚偽回答」の確認では,飯塚圭一裁判官が割り入り,(陳述書に加えて)改めての自白により再確認されたのである。その裁判官の指揮態様に,私は,「中立公正」を認め,感謝し,期待した。
しかし,期待はすぐに消えた。
前期の実技試験で「59点で不合格」の判定の合理性について追及していた途中,飯塚圭一裁判官は,「はい,おわり」とした。
私の持ち時間は,30分。被告代理人からの主尋問で,5分程超過していた際には,何らの注意もなかったにもかかわらず,私には,持ち時間を残して,強権的に制止したのである。
結果的に,副校長が多数交わしたという東京都とのメールをはじめ,退校に関する事実について,何一つ真相が解明されないままとなった◆