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【古事記】スサノオはコミュ障、アマテラスはうつ病だった(?!)②

前回からの続きです。
①ではイザナギ社長に怒られたスサノオ海原支店長。更なる孤独を抱えてしまい、同期のアマテラス高天原支店長に会いに行く場面まで。

同期といえば仕事の壁にぶち当たったときに励まし励まされの文字通り「同志」。そうスサノオは思っていた。しかしコミュニケーションエラーは、自分の中の当たり前が相手の当たり前と合致しないときに起きるのだ。


振り絞った勇気を認めてもらえないと人は自信をなくす

気持ちを言葉にすることが大の苦手でありながらも、自分の中には確固たるビジョンがあったスサノオ。「海原支店(現代に置き換えやすく支店、社長などと呼称をつけている)を今は亡き前社長イザナミのような深い愛情で満たされた温かい場所にしたい」現社長イザナギのような社員を蔑ろにしたワンマン経営にはついていけない・・・。同期のアマテラスなら分かってくれるはずだ・・・・。

スサノオは最後の期待を込め、アマテラスのいる支店のドアを叩いた。

ドアを開けたアマテラスのいでたちにスサノオは怯んだ。白い上下のスーツ、黒いシャツにサングラス。黒光りした先の尖った革靴。完全に戦闘体制だった。お互い支店長を任されるまでは、薄汚れたチノパンにTシャツで夜な夜な理想を語り合った。あの時から時間が止まっていたのは自分だけだ・・とこれ以上はないと思っていた孤独感が更にグッと深くなってしまったスサノオはドアの前に立ち尽くしていた。

そんなスサノオにアマテラスはすかさず、「何しに来たん?」と問うた。

自分がどれほどに歓迎されていないのか痛感したスサノオ。自分の行為行動を説明しようと、言葉にしようと勇気を出した。アマテラスなら分かってくれると思った。でもそれは大きく間違っていた。もう何を信じたらいいのか、どうしたらいいのか分からなくなったスサノオは何も言葉が出なかった。


人は扱われたようにしか人を扱えない

アマテラスは何故はるばる訪ねてきた同期のスサノオに、こんなにも冷たいのか。全ての事象には背景がある。

アマテラス、スサノオ、ツクヨミの三柱にそれぞれ高天原・海原・夜の国をイザナギに任されたときを思い出そう。イザナギはアマテラスにだけ、自分の首飾り(宝)を譲った。今に例えるなら、顧客データなのか自分の経営ノウハウなのか資産なのか、アマテラスにだけ自分の大事な物を受け渡したのだった。それはスサノオだってツクヨミだって面白くない。同時にアマテラス本人も気まずさや逆に負い目を覚えていた。

だから、アマテラスはスサノオが異議申し立てに、ひどければ首飾りを奪いにやって来たとばかり考えていたのだ。「何しに来た」と戦闘体制で待っていたのも頷ける。しかも、イザナギ社長が支店視察に行ったのはスサノオの海原支店のみ。どうしても自分のところには来てくれないのか・・・という寂しさもあった。
しかし、アマテラスのように考えない人もいるだろう。スサノオが期待したように、温かく同期を迎え入れる人だっているはずだ。なぜアマテラスは戦闘体制を取る必要があったのだろう。


アマテラスの教育係だったのはイザナギ社長。行為行動だけを重視していた。結果主義だ。もちろん結果を出すことは何よりも大事だ。しかし、結果を追うばかりでアマテラスは後に岩土に籠るほどの鬱病になってしまう。行為行動、結果にこそ意味があると教育されてきたのだから、人にもそれを求めるようになる。アマテラスはスサノオの”海原支店を大荒れにした””大量のクレーム”という結果しか見ていなかった。だから、支店の経営が上手くいかず首飾りという資産と狙われている・・・と考えたのだった。

最初の記事でも触れたBEINGとDOINGを改めて思い出してほしい。
アマテラスはイザナギにDOINGだけを評価され続けた。BEINGは蔑ろだ。しかしどんな人間であれども命が存在する限り存在を意味するBEINGを認めてもらえなければ孤独になるのだ。

人間は扱われたように人を扱っていく。
古事記の物語には一筋の一貫性がある。
人間の摂理だ。

人間はそう変われない。
だからこそ努力するんだ。

12年万前からの物語でも今と変わらない原理原則がある。
それが古事記につまっている。




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