【古事記】スサノオはコミュ障、アマテラスはうつ病だった(?!)①
早速、今朝の「古事記の学び合い」の復習を兼ねてシェアを。
まず本題に入る前に、「DOING」と「BEING」について触れたい。
人間関係で大切なDOINGとBEINGの違い
◉「DOING」とは、行為行動のこと。
◉「BEING」とは、存在自体のこと。
特に、人育ての現場で思い出してほしいモノの見方。注意をするときは相手のDOING(行為行動)に関して。ここに関しては自分の好き嫌いが入ってもしょうがない範囲。要は、大人であれば仕事内容。子供であれば忘れ物が多いなど学校生活などである。
決して、BEING(存在)については批判してはならない。受け止めるのだ。誰もが皆平等に生まれてきた尊い存在だから。
「そんなこと分かっているよ」とつい情報遮断してしまいそうだが、実は私たち実生活で案外このBEINGを受け入れることなく否定的になってしまう時がある。
①君は注意不足なところがあるから、気をつけるように。忙しいとは思うけど、頑張って。
②君はいつもどうしてこうなんだ。何度同じようなミスをするんだ。忙しいのは分かるけど皆んなだってそうだ。
同じような場面で聞こえてきそうな叱り文句だが、①は行為行動にフォーカスしている。②は君という相手の在り方=存在に対しての注意になっている。そして、最後に相手の忙しさの中でも頑張っていることを「受け止めて」いる。一方、②も相手が忙しいという理解は示しているが伝え方が残念で、これじゃあ全く受けとめていない。
誰しも上司に怒られることはあるし、あっただろう。思い出して欲しいのが、叱られても何だか好意が持てる相手と、叱られるのがもう拒否反応を起こしてしまうほどの相手がいることだ。おそらく、この叱る矛先がBEINGなのかDOINGの違いなのである。
一つ冷静になって心に留めておきたいのは、BEINGを否定するように相手を注意してしまう相手が悪いわけではないということ。人間は自分が扱われてきたように人を扱う。その人も、もしかしたら親や先生、上司に同じようにBEINGを注意され続けてきたのかもしれない。このリフレクションは今日学んだ古事記の内容にリンクする。
コミュ障だったスサノオ
私たちの学び場では古事記のイザナミが命を落とし、イザナギが禊をし、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三神が誕生したところまで学び終わり、古事記の中でも有名な荒れ狂うスサノオの場面を今学んでいる。
父であるイザナギ社長に「海支店」(※現代でイメージしやすいように社長、支店とつけることにする)での勤務を命ぜられたスサノオ。彼にはビジョンがあった。母イザナミのように、より美しく力強い海にすべく試行錯誤していた。しかし、彼は言語化が苦手だった。ビジョン共有が海支店の部下と全くできていなかった。
ビジョンが全く見えない部下達からすると「ちょっとちょっと、何でそんなことするの?」「えー〜、昨日言っていたことと違うじゃん。昨日の作業が無駄だよ。」と。ごもっともである。ゴールの見えないマラソンほど辛いものはない。
かたや、スサノオも「なんで俺の気持ちがわからないんだ。どうして、このビジョンが見えないんだ!」と勝手に孤独を感じ嘆く。どんどん部下達とスサノオの心の距離が広がってしまった。
そんな苦情を耳にしたイザナギ社長が現地視察に入った。すると、確かに現状は酷い。荒れ狂う海。そこで社長はスサノオ支店長を「お前何してんだよ!!!」「色々とクレームが入ってんだよ!」と怒鳴った。
ここでDOINGとBEINGを思い出してほしい。イザナギ社長が注意したのはスサノオのDOINGだろうか、BEINGだろうか。そうBEINGだった。
案の定、見えないところで必死に孤独と闘いながら試行錯誤してきたスサノオ支店長は更なる寂しさを抱え、同期の高天原支店を担うアマテラスの元へ向かったである。
同期に会いたくなるのは、どんなときでしょうか?そんな気持ちを想像しながら、続きをお待ちください。
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