義務教育における漢文不要論について
最近、漢文をもう一回学び直そうかなぁって思ったりしてます。
度々、ネットでも議論されてる「古文漢文不要論」。不要派の言い分としてよく聞かれるのは、
・学んでも社会で役に立たない
・必修科目なのはおかしい(学びたい人だけ学べばいい)
みたいな感じ。
僕自身の考えとしては、その人の価値観によると思うので、科目として必要か不要かは、どちらとも言えません。
ただ、好き嫌いで言えば、古文は好き。漢文は嫌いでした。
古文は、日本の古典文学に触れることで歴史文化や日本語そのものの理解にもつながるし、学んでいて楽しい。読んでもリズムが心地よい。
一方漢文も、中国古典に触れる事はもちろん楽しいし学びがあるのですが、どうしても納得できなかったのが、レ点だの返り点だの書き下し文だの・・なぜ中国語古文で書かれたものを、無理やり日本語の読み方にするのかというモヤモヤでした。
その疑問は、実際に中国語を学ぶ事でより深まっていきました。
例えば論語の言葉「三十而立 四十而不惑」。これを書き下し分にすると、
「三十にして立つ、四十にして惑わず」。「不惑」にはレ点が付き、「不レ惑」=「惑わず」。極めてややこしい!中国語で発音した方がシンプルで読みやすいんですよね。
ただ、そんな僕が漢文を勉強していてよかったと思った瞬間が一度だけありました。
台湾旅行した際に、現地でアテンドしてくれた台湾人の友達が当時mixiで日記を書いてくれました。
タイトルは「有朋自遠方来」
これは、いつぞやの教科書で習った漢文だとすぐに思い出した。
「有朋自遠方来、不亦楽乎(朋あり遠方より来きたる また楽しからずや)」
論語の一節で「同じ志をもつ友達が遠くからでもやってきて一緒に学ぶ。なんと楽しいことだろう」というとても素敵な言葉です。
そんな孔子の言葉になぞらえて、私の来訪を表現してくれたのが、なぜかすごく嬉しかったのです。
中国古典の素晴らしさを理解するため、中国語の文章を書き下して訓読し、日本語として読む・・そんなご先祖様の努力と知恵の結晶が、レ点、返り点、一・二点みたいな書き下しルールだと考えると、頭が下がる思いです。
「矛盾」「春眠暁を覚えず」「青は藍より出でて藍よりも青し」
中国語を学んだからこそ、漢文を中国語と訓読書き下し文の両方で読む・・何か新しい世界が見えてきそうです。