「明日死ぬと思って生きよ」よりも「明日死ぬとしても木を植える」
~あくまで、価値観の話です。価値観は人それぞれが大前提です~
友人のラジオで「明日死ぬと思って生きる?」を聞いて、思考を整理するきっかけをいただいたので、記録の意味で記事をアップします。
木に携わっていると、短期の視点だけでなく、長尺の視点を持つようになります。目先の売上はもちろん大事です。
ただ、売上を最優先にして、木の伐採を促進して売りまくって・・というのが良いかというと、この事業においてはそうではありません。
木は天然資源であり、限りがあります。短期でどんどん伐採すると、売るものが減ってしまいます。もう少し長期スパンでいくと、「地球温暖化」という大きな代償として、じわじわと跳ね返ってきます。
「木材は、適切な販売量を維持するのが、地球環境にとって一番である」
「量ではなく、木を使った商品の付加価値を向上させて売上利益を伸ばし、木を育てる人たちに還元する」
これが、結局は自社の持続性にとっても良いという結論に至っています。
つまり、「明日死ぬと思って生きる」よりも「明日死ぬとしても木を植える」考え方に近い価値観を持っていますし、「残す」ことの大切さも感じています。(「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、今日私はりんごの木を植える」という、ルターの言葉から取っています。)
「明日死ぬと思って生きる」というのはあくまで比喩表現であり、今日を一生懸命生きる、という意味を持っていることは理解しています。
ひとつの「点」である「今日」を大事にすることで、大きな蓄積にもなります。それに、なんとなく「毎日完全燃焼する」というのは、カッコいい感じもしますね。
ただ、友人のラジオを聞いて「明日死ぬと思って生きる」という言葉に対して若干の違和感を覚えていたことを認識しました。
だって、死なずに人生は続いていく可能性が、確率的にも高いのです。
人生100年時代、毎日完全燃焼していたら、正直に言って身が持ちません。個人においては健康を害する、企業においては短期で企業活動が終わってしまうなど、良くない結果につながることもあります。
それに自分が死んでも、自分が残した何かを糧にして次世代が生きていくのです。だったら、完全燃焼を目指すよりも、木を植え続けることを意識したい。残すことを意識したい。そんな考え方です。気のせいかもしれませんが、その方が未来に希望を持って進んでいけるように思います。
私たちは、誰もが前の世代から何かを受け継いでいます。そして、また何かを次に送る。そのバトンリレーの間にいるだけの存在です。
であれば、完全燃焼して燃え尽きてしまうではなく、ちゃんとバトンを渡したいものです。
そのためには日々続いていくことを認識して、活動することも大切ではないでしょうか。