静かなるクーデター:プーチン VS オリガルヒ
翻訳メモ:
プーチンがオリガルヒを退治したエピソードの記事翻訳です。2004年に書かれたもので、当時プーチン大統領は再選が決まり、2期目に突入した頃。
記事ソースは、現在Googleなどではバンされているナショナル・バンガードのモノで、X(Twitter)でもバンされてます。まぁ、この記事を読めば、何故バンする必要があるのか、メディアを動かしている人たちが誰で、どうしてバンする必要があるのか分かります。
ナショナルバンガードは、”白人至上主義”のレッテルを貼られていますが、この人たちの定義を読んでみると、”自然の秩序に則って暮らす”と言う事でした。差別的ではなく、白人は白人でやっていこうよ、という思想らしいです。これは、アタシが考える日本人は日本人でやっていこうよ、と同じだったので、翻訳に踏み切った次第です。
そしてこの記事には”ユダヤ人”と言う言葉がたくさん出てきます。アタシは普段悪い事するユダヤ人、つまりユダヤ教の教えを無視している人たちを”シオニスト”と呼んでいます。信心深いユダヤ教信者は、シオニストと一緒にされるのは嫌だと言っているし、アタシがフォローしている独立系のジャーナリストもユダヤ人はたくさんいます。なのでひとくくりにユダヤ=悪と言うのが好きではありません。
でも、まぁ翻訳なのでそのまま使いました!
ものすごい長いですが、ネット小説だと思って読んでください。プーチンのオリガルヒ退治は、ソ連解体後のオリガルヒの悪事の解説が無いと光りません。
このポストの最後には、アタシが翻訳していて考察した事などをツラツラ書いてます。
※人名や企業名などできる限り日本語表記を探しましたが、出てこない場合、英語読みをカタカナにしました。
では、1990年代のロシアへ行ってらっしゃい~
前書き
2000年7月28日、ウラジミール・プーチンは18人のロシア富豪を前代未聞の会議に呼んだ。プーチンのオリガルヒ弱体化キャンペーンの始まりだった。
ソビエトが自由市場化する際に巨万の富を築いた富豪を招いて、プーチンはルールを書き換えようとしていた。
そして彼はロシアの富豪に対し、
「腐敗した国を作ったのは君たちで、万事休すだ」とはっきり伝えた。
オリガルヒと呼ばれるごくごく一部の人たちが、ロシアの人々の富を裏取引や身内取引により手に入れた。これを読んでいる人の中には、私がオリガルヒの大多数がユダヤ人だった事について書くと、私を非難する人もいるだろう。私はユダヤ人に対して不公平だとは思わないし、敵意を助長させようとしているのではない。ロシアの政治を扱うにあたって、ユダヤ性を抜きに語る事は出来ず、ただ単に事実だからだ。ロシアでは多くのオリガルヒがユダヤ人である事を皆が知っていて、ユダヤオリガルヒの行動が少なからず反ユダヤの感情を起こしてしまった。ロシアのユダヤ人はオリガルヒがユダヤ人の名を汚したと責めるが、私からすると、この件に関して知らないふりをするよりも正直に書いた方が良いと思っている。
万事休す!
クレムリンはオリガルヒに対し次々と家宅捜索や犯罪捜査を始めた。
メディア・モストのウラジミール・グシンスキー、ファイナンス・産業グループ、インターロスのウラジミール・ポターニン、ルクオイルのヴァギト・アレクペロフ、シブネフチ(現ガスプロムネフチ)のロマン・アブラモヴィッチ、そしてボリス・ベレゾフスキーに関係する企業などが対象になった。
2001年1月24日、プーチンは21人のオリガルヒと会談し、前回の会議から少しは改善した事を望むと伝えた。つまりは”少しは勉強したか”と言う意味だ。
”一度民営化した企業を再度国有化するつもりは無いが、ロシア国民に対する責任感を持って仕事をして欲しい”
そう言ってオリガルヒに戦死や負傷した兵の家族サポートのため260万ドル(3.9億円)の寄付を頼んだ。要するにプーチンのオリガルヒへのメッセージは、彼のルールでのゲームしか存在しない事だった。この時点でプーチンはオリガルヒが要求をのむと思っていたのだろうか。それとも一斉にオリガルヒを退治するにはまだまだ力が足りないと気づいていたかも知れない。
これらの富豪たちはロシアの大統領にこんな扱いをされるとは思っていなかった。エリツィン政権はオリガルヒを頼らないと続かない時代だったし、オリガルヒはその弱さを頼りにしていた。プーチンは弱い政権の延長だと思っていたオリガルヒは、プーチン当選の為に躍起になった。プーチンを推したのはオリガルヒが持っていたテレビや新聞であり、彼らのカネだった。彼らはプーチンだけの為に政党まで作り、プーチンを大統領の座に置くことでエリツィン時代の恩恵を継続しようとしていた。
オリガルヒにはこの先も同じようにやっていきたい。当然プーチンもそれを理解していると考えていた。
しかし、プーチンが”そっち側”ではなく、彼が守りたいものは別だった事をオリガルヒは後から気が付いた。プーチンが守りたかった側は、エリツィンを始め、西寄りに改革した人々を軽蔑していたため、これらの要素が排除されるのを待っていたのだ。
オリガルヒは何が起こるのか見えていなかった。ロシアが完全に枯渇するまで吸い尽くす事ができると考えていたのだろう。
ロシアの人々が立ち向かって来るはずがないと過信するだけの傲慢さがあったのかも知れない。
プーチンが当選したのは2000年3月27日、数か月後には昔の”仲間”は必要なくなった。それでも一部ののオリガルヒはプーチンと何らかの取引ができるのではないかと考えた。プーチンのルールに従っておけば、民営化で盗んだ財を保持できると踏んでいた。
オリガルヒはプーチンが繰り返していた言葉を注意深く聞いていなかった可能性もある。そういった”美しい言葉”はロシアの有権者向けの薄っぺらい言葉だと思っていたかも知れない。
プーチンは投票前の2000年3月18日のインタビューでこう答えている。
つのる恐怖
(2000年5月25日。ロシア国営ラジオのユダヤ番組でイェレナ・Kさんが言った言葉。”ロシアのユダヤ人は権力者のせいで報復を恐れている”と言うカナダのユダヤニュースを引用した)
私がロシアに住んでいた経験からしてこう言った風潮がロシア人に広まっていたのは事実だ。ロシアの人々はオリガルヒが略奪したせいで自らの生活が惨めになったととらえていた。オリガルヒの中ではベレゾフスキーが最も嫌われており、彼はエリツィンとゴルバチョフに次いでロシアの人々から嫌われていた。
オリガルヒは実際何年も反発を恐れていた。エリツィン政権時代は特に権力を見せびらかすような露出が多かったからだ。
1996年の秋、影響力のあるオリガルヒは、ある事について話し合うため、モスクワのスパロウヒルズにあるヴィラに集合した。彼らは問題を抱えていたー「反ユダヤ主義」である。オリガルヒの大多数がユダヤ人である事は否定できない。ロシア最大のテレビ局2社はベレゾフスキーとグシンスキーが保有していたし、さらに新聞や雑誌も彼らのモノで、多大な影響力をもっていた。
当時ユダヤ系出版社やオリガルヒ自身も彼らのバックグラウンドについて隠す事はしなかった。タイムス紙ロンドンは1997年1月27日にこう伝えている。
その日、ロシア国民からの反発について話し合うために集まったのは、ボリス・ベレゾフスキー、ミハイル・フリードマン、ウラジミール・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキー、アレクサンドル・スモレンスキー。そして数少ないユダヤ人ではないオリガルヒ、ウラジミール・ポターニンが宣伝用として呼ばれた。
反ユダヤ感情の高まりからフリードマンとグシンスキーはロシア・ユダヤ会議を設置し、ロシアでのユダヤロビィ機関を立ち上げなければならなかった。ただし、すべてが上手く行ったとは言えない。中でもベレゾフスキーはユダヤ人であり権力者である事を好んでひけらかした。1997年1月13日のアメリカニュースには”ロシアで最も影響力のある新興投資家”と言う記事があり、その中でエリツィン政権に就く高官を自由に指名することができると自慢してしまった。
”エリツィンにはユダヤビジネスに対する道徳的が義務がある”と彼は主張した。
実際、1996年のエリツィンの再選選挙キャンペーンの働きから、ベレゾフスキーはロシアの国家安全保障会議で副議長のポストに就いた。しかしロシアの報道機関はベレゾフスキーが3年前にイスラエルの国籍を取得していた事を暴いたいたのだ。ベレゾフスキーは犯罪で起訴される事を恐れ、国外逃亡する時の為にイスラエル国籍を取得したのだろう。ロシア議会はエリツィンの人事について異議を唱えた。二重国籍のベレゾフスキーは安全保障会議のようなセンシティブなポジションに任命できない。それに対しベレゾフスキーはこう反応した。
言うまでもなく、そのコメントでロシア国民の恨みが軽減する事はなかった。しかし少なくとも、ベレゾフスキーの正直さは評価できる。アメリカのユダヤオリガルヒは公にそういう事を決して言わないからだ。
収穫間近ー強奪間近
なぜこんな事になったのか?
どうやって小さな集団がこんな短時間でロシア政府をコントロールするようになったのだろうか?
ソビエト連邦時代、ユダヤ人は差別対象だったため、ユダヤ人はネットワークを構築することが生き残るすべだった。この件についてユダヤオリガルヒの中でも弱者であるエフゲニー・サタノフスキーはこう説明している。
一つの説として共産主義だった時代に”反ユダヤ”が存在し、多くのユダヤ人がブラックマーケットに関わっていた事が上げられる。裏のブローカーは品薄状態を作ったところで高額で買い取ってくれる顧客や才気ある仲介業者を見つたり、工場のトップとの裏取引を行うのが上手だった。
1987年にペレストロイカが開始されると、これらのブローカーたちはコネクションを使い商工組合を作り始め、それが一般企業として発展して行った。
グシンスキーは銅線をブラックマーケットで買い、ブレスレットを作っていたし、ベレゾフスキーはドイツ車とイタリア製コンピューターのトレーダーだった。後の銀行家であるホドルコフスキーは、ソフトウェアの販売契約を破棄されないよう共産党青年団のコネクションを使っていた。ソビエト連邦崩壊と共に訪れた民営化の波は、普通のロシア人よりもはるかに大きなアドバンテージをユダヤコミュニティにもたらした。さらに彼らは自分たちを一つの民族グループだと捉えており、ロシア人が自分たちを”一般の国民”と捉えていた事に比べると、始めから勝利が約束されていた。
国営企業の民営化で大儲け
1992年にあった評判の悪い”バウチャー民営化計画”では、エリツィン政権の首相であったアナトリー・チュバイスが、ロシア経済の3分の1に当たる国営企業を民営化させた。彼の案は民営化するにあたってその影響が不可逆的であるとし、値踏みせず民営化して資本経済への道を開くと言うものだった。チュバイスは、”バウチャー計画は行政機関による統制経済と国有財産をベースとした政治システムの死を意味する”と述べている。理論的にはバウチャー計画は国民一人一人が株主となり、数百万人のロシア国民が一晩で財産保有者になると言う触れ込みだったが、ロシア国民に配られたのは1株のバウチャー(引換券)だった。合計で1臆4800万枚のバウチャーが発行され、オークションで企業の株式とトレードされた。チュバイスはバウチャー計画を推し進める際、1枚のバウチャーでヴォルガ(ミドルクラスの車)が2台買える価値になるだろうと言っていたが、実際は必要な資金を用意できたオリガルヒが何万枚ものバウチャーを買い占め、産業自体と引き換えた。さらに産業を解体して売りさばいた。
規制の無かったバウチャー投資ファンドは、顧客のバウチャーを持ち去り、地元の犯罪者や、欧米の投資銀行、国際的マネーロンダリング機関に転売した。中には単純に自社株を買い占めたファンドもあった。
およそ600に上るファンドは45億枚のバウチャーを手に入れたと言われる。最も多かったのがファースト・バウチャーで、1億枚のバウチャーを取得した。これには多くのロシア人が騙されたと感じたため、初めての民営化に対する印象は後味が悪かった。
民営化に反対する機運が高まったことと、議会からのプレッシャーを受け、ロシアでは1993年4月25日、国民投票が行われた。投票で質問されたのは4問。
1.エリツィンを支持しますか?
2.エリツィンの経済方針を支持しますか?
3.大統領の選挙前倒しを望みますか?
4.議会の選挙前倒しを望みますか?
この時チュバイスは、ユダヤ人銀行家と通貨操作のジョージ・ソロスと密会を行っている。ソロスは長い間、外国の問題に介入してきた事で知られているが、この時も国民投票のキャンペーンの為に100万ドルをオフショア口座に振り込んだ。
勝利を感じた反対派はの議員は”改革派の投獄”の話題など堂々と話していたが、強力なメディアキャンペーンによりエリツィンと改革派は52%と言うギリギリのラインで生き残り、民営化継続が決まった。ロシアの富はさらに少人数の手に集中していき、ロシア国民の生活は困窮していった。
後にオリガルヒになって行く人たちはこの時点で、産業を二束三文で買える資本金とコネクションを持っていたと言える。
ロシアで最も裕福になったホドロコフスキーも、コネクションを使ってバウチャーを大量に買い占め、数社の大きな工場を入札により手に入れた。材木、チタン、パイプ、銅精錬所などの株式を購入し、最終的に100社以上の企業を制圧した。
オークションでは、ロシア産業は大幅に過小評価され、出回ったバウチャーの数から見ると、ロシア全体の産業はたったの120億ドルで、アメリカ大企業の1社より安かった。ソビエト製トラック&リムジン製造のジル社は10万人の従業員を抱えていたにも関わらず1600万ドル、大手車メーカーのGAZは2700万ドルだった。
ベレゾフスキーのバウチャー(引換券)詐欺
最も悪名高く嫌われていたボリス・ベレゾフスキーもまた、自動車業界から始まった人物だ。彼はロシアの民営化政策で起こったハイパーインフレーションも利用した。彼が持っていた自動車販売会社ロゴバズは当時カーディーラーとしてロシアでトップを走っていた。ロゴバズはトリアッチにある車メーカーのアフトバズから大量の車を仕入れ、インフレーションでルーブルの価値が落ちるまで待ってから支払いをした。これによりベレゾフスキーは巨額の富を得てアフトバズには何も残らなかった。
1993年ベレゾフスキーは新たな自動車製造メーカーを作る事を思いつき、フォルクスワーゲンのような大衆車を作る事にした。彼は第二次世界大戦前にフォルクスワーゲンがやったように、彼の会社に投資した人に対し、独自のバウチャーを発行すると主張した。20億ドルが必要だと試算した彼は、バウチャーを売って得た資金を開業資金に充てると訴えた。
ベレゾフスキーの幽霊会社はロシア自動車連盟(AVVA)と言うもので、彼はバウチャーの証明書として、高価な紙をスイスで調達し、紙幣のような精巧さで作成した。バウチャーには革命前のロシア実業家の肖像が施され、表には”1株”と書かれている。その1株は1万ルーブルの価値があり、1995年から保有者へ配当が支払われるとベレゾフスキーは約束した。
証明書自体は”無記名証明書”と呼ばれるもので、理論上保有者はAVVAの一株へ交換できるのだが、現実にはベレゾフスキーはまったく株を売っておらず、ただの株券に似た紙切れだった。AVVAはベレゾフスキーに近い人物の会社や銀行で管理されていて、さらにロシアの法律では保有者の名前が記載されている事が求められるため、証明書が何かを証明する事はなかった。
ベレゾフスキーが本当に”ロシアのフォルクスワーゲン”を作るつもりだったのかを知る由もないエリツィン大統領は1993年、3年間AVVAの減税を認める令にサインをし、ロシア国民は2重に騙されてしまった。
ベレゾフスキーの本当の計画は民営化後のアフトバズ(車メーカー)の工場を買い取ることだった。ロシアの国民に価値のない証明書を売りつけて得たカネでアフトバズの株をインサイダー価格で買い付けるのだ。この方法で彼は、1993年12月から1994年中ごろにかけて5000万ドル(現75億円)を手に入れ、260万人のロシア国民がAVVA株用バウチャーの為にお金をつぎ込んだ。
ベレゾフスキーは手に入れたカネでアフトバズの工場の一部を手に入れた。
AVVAはわずか310万ドル(現31億円)でロシア最大の自動車メーカーの3分の1の株式を取得した。標準をはるかに下回る価格だ。政府のバウチャーで国民から集めたカネを”実在する企業”の”実在する株式”の購入に充てたのだ。かくして1994年8月8日、AVVAはアフトバズを落札。内部者にしか分からない事だが、公開入札だったはずが、入札者はAVVAのみで、ロシア最大の自動車メーカーの34%の株式を取得した。
ロシアの人々は騙され、彼らにできる事は何も無かった。ベレゾフスキーのやり方は、バウチャーの購入者のリストを作らず、名前の印刷のないバウチャーを販売することで、購入者がバウチャーを買った事を証明する事が困難にしたのだった。
こういったスキームは1990年代普通に行われていた。様々な手法の一つである。ロシア国民のように市場経済の経験がない人々は、公式っぽい紙切れで簡単に騙されてしまった。
メディアだよ、バカ!
オリガルヒは財力を蓄えて行くうちにメディア業界へ進出し始めた。ロシアで最も嫌われていたベレゾフスキーとグシンスキーは特にメディア業界で活発だった。新聞・テレビ・ラジオを掌握する事は、収入を増やすだけでなく、彼らのビジネスを守り、政治的な権力が持てる事に気が付くまで時間はかからなかった。
かつて演劇の監督もやったことのあるウラジミール・グシンスキーのビジネスは、模倣品の彫刻と車の立体エンブレムから始まった。1988年、ペレストロイカの最中に彼はソビエト連邦でのビジネスに興味がある投資家向けへのコンサルティングビジネス会社、インフェックを開始。その後会計事務所として持っていた部門からモスト銀行を創設した。1990年にはモスクワ市長のユーリ・ルシコフとのコネクションから、モスクワの沢山の人々の口座を持つことができた。1992年、銀行家グシンスキーは新聞社を取得する事に決めた。彼の目的は収入を増やす事ではなく、影響力を手に入れるためだった。後に彼はこう話している。
オリガルヒが保有するメディアの存在意義
よく”企業メディア”と言う言葉を耳にするが、これらメディアの本当の力は、政治的な影響力を持つことである。アメリカと同様にロシアでも、メディアで利益を上げる事は二の次であり、政治的な影響力と選挙が最も重要になる。
グシンスキーの初めて立ち上げた新聞社、セヴォードニャは1993年の2月に刊行された。しかし、影響力が十分でなかったことから、彼はエリツィン政権のコネクションを使ってロビィ活動をし、ソビエトテレビのチャンネル4で彼の会社に放送時間を設けるようエリツィンにサインさせた。1993年の10月10日、グシンスキーの個人チャンネルであるNTVが放送開始、翌年1月には1日6時間の放送を行うようになった。グシンスキーのメディア帝国は、彼を本物のオリガルヒにのし上げ、ロシア政治において重要な役割を果たした。
欧米スタイルのメディア王になったのはグシンスキーだけではない。あのバウチャー詐欺で儲けたベレゾフスキーにも計画があった。元々制御科学機関の研究員でもあった彼には政治家になる夢があった。ベレゾフスキー曰く、彼が社会の中で高いポジションに就けない唯一の理由はユダヤ人だから。
年を重ねたベレゾフスキーが、プーチンが彼を取り締まったのは、反ユダヤだからだと語った事がある。
いつものように、ユダヤ人に対する批判はすべて”反ユダヤ”なのだ。聞き飽きた話だ。
ベレゾフスキーの国営放送乗っ取りエピソード
1992年になる頃、ベレゾフスキーは自分のテレビ局を手に入れる事を考えていた。最も興味があったのはチャンネル1で、ソ連政府から高額な衛星を購入し、元ソビエト連邦のほぼ全土に行きわたる電波を持っていた。その視聴可能者数は、2億人とも言われる。
ベレゾフスキーはまずロゴバズ・プレスと言う広告代理店を設立した。この代理店は、チャンネル1のコマーシャルを独占するために作られたレクラマ・ホールディングの創始会社の一つだ。1993年から1994年の間でロゴバズ・プレスは広告主とテレビ局の仲介をする事で100万ドルの利益を上げた。しかし、彼にはお金を稼ぐだけでは物足りず、グシンスキーと同じようにテレビを政治利用するつもりだった。この頃ベレゾフスキーはエリツィンの身内サークルで活動するようになる。
エリツィンが2冊目の回顧録を書き終え、出版社を探していた時、ベレゾフスキーは、自分の持っているアガニョークと言う出版社を使ってフィンランドで出版するため何百万冊もの印刷を手配した。そしてロシア大統領の家族に対する忠誠を表明したことから、彼はエリツィンの個人スポーツクラブや、ハイクラスクラブに招かれるようになった。ベレゾフスキーはそういった場所でロビィ活動を積極的に行い、彼の持つテレビ局は大統領の政策を支持するためのものだと吹き込んだ。
1994年11月29日、エリツィン大統領は法に背いて入札無しでチャンネル1の民営化にサイン。その新しい放送局は”ロシア公共放送(ORT)と名前を変え、ロシアが株式の51%を、残りの株式をエリツィン大統領の金持ち仲間で分割し、主要株主はベレゾフスキー、ホドロコフスキー、フリードマン、スモレンスキーになった。エリツィンが放送局のトップとなり、監視委員会設置も設置された。
新しいテレビ局の組織は、一部の人間みんなに取って便利で、みんなハッピーだった。
メディアを操作すれば簡単に選挙結果が変わる
オリガルヒがロシア国民を犠牲にしながら身内の利益のためだけに総力を挙げて居る間、時おりオリガルヒ同士での戦いが勃発した。
特に1994年後半のベレゾフスキーとグシンスキーの戦いは有名だ。
グシンスキーはロシアで最も裕福な銀行家であり、ロシアで2番目に権威があったのに比べ、ベレゾフスキーは銀行家で17位、権威で13位だった。
当時ベレゾフスキーはエリツィンとその仲間たちの政治家とつるんでいたが、グシンスキーはモスクワ市長のルシコフと深いつながりがあった。ルシコフはモスクワの企業からカネを吸い取り、モスクワ市民の生活を豊かにすることを目指していたため、市民にとても人気があった。沢山の職を生み出し、労働者が期日にちゃんと給料が受け取れているかに目を光らせていた。
ルシコフの人気によりエリツィンの立場が危うくなり、その後やって来る大統領選への不安が高まった。
そんな中、グシンスキーとベレゾフスキーはロシア国営航空会社の海外航空券取り扱いを巡り激しく対立した。しかしつまるところ、この二人は同じ腐敗したシステムが必要だったー腐敗したシステムが彼らの命綱だった。
1996年の大統領選挙活動中、共産党トップのゲンナジー・ジュガーノフがエリツィンを倒してしまう可能性が出て来た。騙されて恥をかいたロシア国民には共産党の言葉が響いたのだ。
エリツィンの支持率は一桁台で、改革派のエリツィン陣営はパニックに陥った。これでは今まで”欧米化”と称して懸命にロシアと国民から搾り上げて、私腹を肥やして来た日々が終わってしまう。
チュバイス(ベレゾフスキーに買収されているエリツィン政権の首相)は記者会見を開き、ジュガーノフを外交と国内向けの顔が違うと非難した。共産党が政権を握れば、言論の自由はなくなり、政敵は投獄されると主張。”共産党のポリシーではロシア国内で血が流れると判断する”と付け加えた。
その時、ベレゾフスキーとグシンスキーは戦っている場合ではなく、エリツィンを政権の座にキープしておくことが二人の当面の目標だと気が付いた。
グシンスキーは後にこう話した
ベレゾフスキーもまた危険を察知した。グシンスキーに電話し、仲の悪かった二人は会う事に決めた。
グシンスキーが後から明かしたところによると、彼はオリガルヒ仲間に片っ端から電話した。その中でジョージ・ソロスも非常に不安を感じていた。ソロスは、ジュガーノフが勝ったら、ベレゾフスキーは電柱に吊るされるだろうと予測した。
歴史的に見ても、この先も、ユダヤ人は何かの脅威にさらされた時、集団は団結し、己の利益を最優先する。それが彼らの生き残るすべであり、ここ数千年それを続けて来た。
実際に、日々真面目に働くロシア人はベレゾフスキーとグシンスキーが電柱から吊るされるのが見たかった。しかしその二人は敵を倒すだけの強力な武器 ー ロシアにある大手テレビ局3社のうち2社を牛耳っていた。オリガルヒにとっては生きるか、死ぬかである。メディアを使っての猛攻が始まった。
ベレゾフスキー、グシンスキー、ホドロコフスキー、ポターニン、ヴィノグラドフ、スモレンスキー、フリードマンの7人衆(G7)にとって、生き残るためにエリツィンが必要だった。エリツィンがいなければ、ロシア国民の怒りは彼らに向かってしまう。
ロシアで初めての”西側スタイル”の選挙キャンペーンが行われた。共産党は初めから不利だった。
1996年のエリツィン再選キャンペーンは、メディアのコントロールがいかに影響力があるか世界に知らしめた。同時に、いかに選挙の結果が簡単に変わってしまうのかも・・・・
オリガルヒに雇われ、彼らに富をもたらしたチュバイスがエリツィンの選挙戦の理事長だった。チュバイスが”個人資産保護センター”と言う個人ファンドを作り、500万ドルの開業資金を手に入れた時、エリツィンを選挙で再選させる事は非常に難しく見えた。当時エリツィンの支持率は3~4%で、ジュガーノフの支持率は20%だった。
エリツィンの取り巻きの中には、選挙の2年うしろ倒しを考えている者もいた。エリツィンは、ロシア下院を解散して共産党を排除し、選挙を2年遅らせる計画を実際に立てており、書類まで準備され法令執行間近だった。しかしその法令を執行してしまうと、軍がエリツィンを支持せず、内戦に発展しかねないと説得され、選挙戦を継続する事にした。
そんな中、勝利を感じていた共産党員は1996年3月15日、エリツィンが1991年にウクライナとベラルーシの3国間で調印したベロヴェーシ合意を破棄する決議を行い、250対98で可決した。ベロヴェーシ合意はその3週間後にソビエト連邦の崩壊を起こした合意であるが、この決議には何の拘束力もなかった。しかし、現実にはエリツィンには政治的な大恥だった。
エリツィンは4か月の間に24箇所の都市を訪れ、テレビ放送の為にロシア国民と仲良くしているイメージを作り上げた。最も有名なシーンは、ロストフ・ナ・ドヌでのロックコンサートでエリツィンが踊ったシーンだ。エリツィンは自分が唯一の共産主義者の替わりである事をアピールし、同じ民主党内のライバル、ヤブレンスキーを抜いて支持率を上げた。3月には若者の支持を集め、4月には共産党候補者のジュガーノフに迫る勢いだった。
4月27日、オリガルヒは新聞に公開声明をだした。それは軍人、企業主、政治家、世論形成者に宛てたもので、ロシア社会が分断している事に警鐘を鳴らし、政治的妥協の道を探して共に努力しようと言うものだった。書簡は共産党員を強く非難しており、7人衆のサインと他の6人のビジネスマンや実業家がサインがあった。
ジュガーノフへの魚雷発射だった。
"西側スタイル”の選挙広告が流れ始めた。
”心の声で選んでください”
また別の広告では、エリツィンの家族の写真、子供の頃の話をしているエリツィン、アスリートだった頃、反抗した頃、父として、祖父としてなどの映像と共に、バックグラウンドでは静かなピアノの音楽が流れていた。広告の最後に白いシャツを着たエリツィンはこう訴えた。
これらの広告は、つらい思いをしてきたことで感情的なアピールになびいていたジュガーノフの支持者向けだった。
もし、メディアが公平で偏向が無かったとしたら、ジュガーノフは簡単に選挙に勝っていただろう。
エリツィンの取り巻きは、もっと強烈にエリツィンにスポットライトを当てることにした。エリツィンを”二人の悪いヤツでもあまり悪くない方”にする必要があった。オリガルヒの腕の見せ所だ。
自分たちが推している候補者の為だけに偽の新聞を作り、1000万部発行した。ある号ではジュガーノフの批判を載せ、ある号では完全に嘘の共産党会議議事録を掲載し、”国民に約束したことは何一つできない”と話したと報道した。さらにジャーナリストに希望する内容を書いてもらうため、何万ドルも支払った。
もし他の国で他の時代に起ったのであれば、西側は選挙違反だと騒いだに違いない。
ジュガーノフに最もダメージがあったのは、偏向した選挙ニュースだった。ベレゾフスキーとグシンスキーは大手チャンネルの2局が保有していたのに対し、残り1局は国有放送局だったため、ジュガーノフについての報道はまったくされなかった。
共産党と保守系の党が新聞以外のメディアへアクセスできなかったのは大きな痛手だった。本当のメッセージを伝えることができない一方で敵は作りたいイメージを作っていった。
別のトリックとして、オリガルヒはポピュリストの中将であったアレクサンドル・レベジを密かにサポートした。レベジ自身も大統領選に立候補していたが、彼はジュガーノフのライバルだっため、レベジが支持率を上げればジュガーノフの支持率が下がることになり、結果的にエリツィンに有利になった。
レベジはエリツィン側から選挙活動費として1000万ドル受け取っている。
最終的にエリツィンの選挙費用の総額は1億ドルに達した。
1回目の投票でエリツィンは35.28%でギリギリ勝った。ジュガーノフは32.03%、ダークホースのレベジが14.52%、ヤブロコ党のヤブリンスキーが7.34%それぞれ獲得した。エリツィンは決選投票に備え、レベジに安全保障会議のトップの座を与えた。
1996年6月26日、エリツィンは心臓発作を起こした。支持率調査でも若干の低下がみられ選挙集会への出席も予定されていたが、オリガルヒが新聞やメディアを牛耳っていたため、国民にエリツィンの体調が知られる事は無かった。
1996年7月3日、エリツィンは53.82%の得票率で、40.31%のジュガーノフをおさえ再選を果たした。
オリガルヒが勝ったのだ。彼らの身の安全は確保された。
本当にロシアの統治者になった気分だった。何も彼らを止められない。
メディアと銀行のコントロールにより、当初支持率3%だった大統領を再選させたのだった。
しかし勝利の瞬間であっても、ロシア国民の反発と反ユダヤへの恐怖はぬぐえなかった。
ロシアの現状の維持は難しかった。オリガルヒと革新派は敵が多すぎる。
彼らに何か起こるのは時間の問題だった。
危機一髪
ロシア下院での対立により、エリツィンは首相の席にヴィクトル・チェルノムイルジンを指名できなくなってしまったため、1998年9月10日、チェルノムイルジンへのサポートを破棄し、下院が求めたエフゲニー・プリマコフを任命した。
プリマコフは興味深い人物だ。西側の報道や改革派の法には、彼はソビエト時代の伝説のスパイで信用ならぬと書かれているが、ロシアでは数少ない正直な政治家として信用され好かれていた。プリマコフ自身はユダヤ人だが、アラビア学者でサダム・フセインとアラブの大義に支持を寄せていた事で知られる。ロシアの政治でも広く受け入れられたユダヤ人で、私の記憶に寄れば、唯一ロシアの保守派にも認められていた人物だ。
他のロシア人政治家と違ってプリマコフはオリガルヒに何も借りが無かったため良いと思えば取引するし、逆もありで自由だった。オリガルヒからのサポートも不要だったので、脅しや賄賂が通用しない強者だった。
プリマコフはオリガルヒを犯罪者だと考えて追いかけ始めた。
1999年1月28日、プリマコフは閣僚会議で囚人が94,000人恩赦されたことについて、”経済で犯罪を犯した者たちの為に刑務所を開けておいた”と発言している。プリマコフが特に嫌いだったのがベレゾフスキーだった。ベレゾフスキーが首相の射程距離に入るのも近かった。
ほどなく検察と迷彩と黒いマスクの武装グループがモスクワにあるベレゾフスキーの会社に突入した。1999年4月5日、検察庁はベレゾフスキーに対し、アエロフロート航空券販売に関わる詐欺行為で逮捕状を出した。
5月にはロシア下院でエリツィンの弾劾裁判を試みたが失敗に終わった。噂によると、弾劾裁判の票は一票3万ドルで大統領府により買収されたと言う。
この頃2期目の大統領任期が迫っていたエリツィンは、犯罪捜査から確実に逃れる事を考え始めたのであろう。オリガルヒも次の大統領が彼らを追い詰めないように固めておかなければならなかった。
弾劾裁判やベレゾフスキーへの逮捕状はこれから起こる事への兆候に過ぎなかった。舞台裏では何か別のことーー今まで黙っていた人々が動き出そうとしていた。
ザ・反乱
全てはユーゴスラビアへのNATOの一方的な戦争犯罪から始まった。
この戦争はロシアでは極端に嫌悪されていた。ロシアの人々はセルビア人を正教徒のスラブ人仲間であり弟分と考えていたからだ。
アメリカの指導者たちに会うために飛行機に乗っている時、アル・ゴアアメリカ副大統領からユーゴスラビア空爆の決定について聞かされたプリマコフは、そのまま飛行機をモスクワへ戻らせた。
ロシアは西側からの経済援助を受けており、エリツィン政権はアメリカとの対立を望んでいなかったからだ。セルビアの人々に何もできなかった。
エリツィンはあがいてプリマコフをセルゲイ・ステパーシンと交代させた。
空爆が始まった時、私はモスクワにいて、ロシアの人々が戦争に抗議しているのを見た。目には怒りが現れていた。
ロシアの人々は、私がアメリカ人だと分かると、戦争に反対だと言い、同時にアメリカ政府は何故そんなことをするのかと私に説明を求めた。
エリツィンの権力衰退とプーチン首相の誕生
アメリカ政府はロシアの国民が怒っているのを知らなかったのか、または気にならないほど傲慢だったのだろうか。このアメリカの行動はロシアの未来と西側とロシアの関係にとって大きなインパクトとなった。究極的に言うと、アメリカがロシアを絶対に攻撃しないとは言えなくなってしまったのだ。
1999年6月11日、ロシア軍は大統領府が出したユーゴスラビア降伏を無視し、コソボにあるプリシュティナ空港の制圧のため兵を出した。
エリツィンは軍のコントロールも失った。
静かなるクーデターの始まりだった。
エリツィン政権は、軍や治安部隊の調整をロシア外務省を通して調整させた。
エリツィンは大統領の座に残れたが、時間は無くなっていた。
8月10日、エリツィンは首相のセルゲイ・ステパーシンを解任し、新しく無名の元KGB士官でロシア保安庁のトップだったウラジミール・プーチンを任命した。
プーチンをどう捉えたらいいのか誰も分からなかった。彼は政治の経験が少なく、サンクトペテルブルク市の副市長を短い時間務めただけだったが、少なくとも”民主主義”や”自由市場”について正しく言葉にしていた。
プーチンが首相として人気を博したのは、チェチェン戦争が再発した時だ。
1999年8月、チェチェンの反政府勢力が隣のダガスタン共和国のいくつかの街を攻撃したのだ。プーチンは断固とした態度でこの問題に対応した。迷うことなくロシア軍を派遣し、反政府勢力を潰したのだ。
8月から9月にかけて起こったモスクワ連続アパート爆破事件でプーチンは更に人気を得た。
ここで重要なのは、コーカサス地方のチェチェンおよびほかの民族グループに対する敵意がロシア国内に広がっていた事だ。その後プーチンの人気は青天井になった。何年も続いたエリツィンの弱いリーダーシップからすると、ついに強いリーダーが現れたようにも見えた。
猟師が獲物になる時
ベレゾフスキーや他のオリガルヒたちには、プーチンは”オリガルヒの権力維持”に頼れる男だと思い込んだ。
プーチンは全く逆だった。
別の方針があり、治安機関は着々と権力を取り戻しつつあった。
ベレゾフスキーは2000年の大統領選への準備を開始した。プーチンの為に資金を出し政党”統一”を作った。政党と言っても、これと言った方針はなかったが、プーチン首相の人気に乗じて”統一”はロシア下院で2番目に多い議席を獲得した。(-ロシアの共産党以外のほとんどの政党は一般大衆から生まれた組織ではなく、単純にある政治家を支持するためのもので、党員は政治家に投票する人の集まりである。自由民主党と言えばジリノフスキ―だし、祖国党と言えばルシコフ、統一党ならプーチンと言う具合)
この頃のエリツィンには、自分と家族が将来逮捕されないように身を守るのが最大の課題だった。ロシア下院での弾劾裁判未遂を見れば、彼らが権力を持った時に何が起こるのかは目に見えていた。エリツィンは”ロシア国民に対するジェノサイドを行った”とも非難されている始末だ。敵が権力を持てば、犯した犯罪や疑惑を償わなければならなくなる。
静かなるクーデターの一環としてプーチンを首相にし、その後大統領にするのに、エリツィン一家を免責する取引は行われていたのだろう。プーチンが大統領になった時初めに行ったのは、エリツィン一家に対する不起訴の特権を与える事だった。9年間の国の貧困化と民営化スキャンダル、オリガルヒの権力増大、反対派に対する軍隊の使用、2回のチェチェン戦争、エリツィンが逮捕を恐れる要因はたくさんあった。しかしエリツィンは首の皮一枚残ったのだ。
この特権を与えたことが、オリガルヒにとって”プーチンはこっち側の人間だ”と思わせた。ユダヤのカネで遊びたい人間なのだと。
1999年の大みそかの晩、エリツィン大統領は国民に驚きの声明を出した。選挙を3か月先に控え、大統領の座を退くと言うものだった。選挙までの間、ウラジミール・プーチンが大統領代行となる。
3月の大統領選は、プーチン大統領代理にとって簡単な選挙となるだろう。しかし実際何が起こるのかは誰も予想すらしなかった。
プーチンは電光石火のごとく動き始めた。まず国民全員に一連のルールを制定すると発表。当然オリガルヒも含まれる。それから国に対し”垂直コントロール”を行う事を伝え、地方知事の再編に取り掛かった。エリツィン政権下で自治権を与えられ、思う存分楽しんできた人たちだ。プーチンはこの政策で、国を連邦管区で分割し、それぞれの地区にプーチンから任命された大統領直属の代表を設置した。当時89人いたロシア知事はそれぞれの大統領全権代表に報告しなければならなくなった。任命された大統領全権代表7人のうち5人が元KGBまたは軍司令官だった。全員プーチンに対して忠誠心のある人物である。
プーチンはそれに続き、汚職容疑のある知事を追放した。
そして彼のサポーターで当選に一役買った人たちーオリガルヒに取り掛かった。プーチンの”資本主義下の盗賊を制圧する”言う言葉は本当だったのだ。
しかしオリガルヒ全員を一気に始末するのは難しい。
暗殺リストの一番上は、グシンスキーだった。
プーチンと執行代理人は容赦なくグシンスキーと彼の帝国を追い詰め、1年以内に勝利を獲得した。グシンスキーのメディア複合企業はメディア・モストと呼ばれ、国営エネルギー企業のガスプロムが融資の保証人だった。メディアモストは1996年に2億ドルの融資を受けていたが、グシンスキーが債権者へ返済ができない時には代わりにガスプロムが返済していた。ガスプロムのメディア・モストへ出資額は25%におよび、メディア帝国の一株を保有していた。
プーチンが大統領になると、ガスプロムはグシンスキーの財布になるのを辞め、現金を要求する敵対企業となった。プーチンのチームはグシンスキーが必要金額を準備できない事を知っていた。計画のうちだった。
グシンスキーはプーチンを”言論の自由の敵だ”と大っぴらに批判するようになった。
2000年5月11日、グシンスキーは、サンクトベテルブルク市のテレビ会社ロシアン・ビデオの民営化における詐欺疑惑で逮捕された。ロシアで最も裕福な男の一人が、無敵だと思っていた男が、モスクワで最も評判の悪い刑務所ー18世紀に建てられた超満員のブチルスカヤ刑務所にぶち込まれた。
プーチンはスペインへ訪問の旅の途中、このスキャンダルについて”ただのビジネス上のモメ事”だと答えた。
クレムリンのやりたいことは決まっていた。グシンスキーに一括返済させて破産させることだ。
西メディアが”ロシアの言論の自由の侵害”と書けど、クリントン大統領がグシンスキーに代わってプーチンに頼むも、もうシナリオは決まっていた。
グシンスキーの時代は終わり。恐れていたロシアの反撃が始まったのだった。当然のように”反ユダヤだ”の声は聴かれたが、グシンスキーは助からなかった。”反ユダヤだ”の非難をすれば腐敗したシステムの弁護になるかと言えば、そうではなかった。
他のオリガルヒに刃が向くのも時間の問題だった。
グシンスキーの正式な罪状は詐欺罪で6月16日には保釈されたが、圧力は続いた。そのころメディア顧問としてプーチンに指名されたミハイル・リーシンはオリガルヒ撲滅を指示されていた。非公開交渉は続いた。
最終的にグシンスキーのガスプロムからの借り入れは4.73億ドル、ガスプロムにメディア各社を売ればグシンスキーは自由の身になる、というのが条件だった。他の条件に”3億ドルの現金での返済”があった事を鑑みると、金額の問題ではなかった事がうかがえる。欲しかったのはグシンスキーのメディア帝国だった。
その間もグシンスキーの企業への家宅捜索は続いた。7月7日にはメディア・モストの子会社NTVから書類の入った箱が運び出された。
グシンスキーはこう話している
行先は俺らが決める -ロシア流だ。
7月18日、グシンスキーは書面の声明を発表した。起訴の取り下げと海外渡航許可の為に、売りたくないビジネスを無理矢理売らされ、この一連の強行はリーシンによるものだったとグシンスキーは述べている。
7月20日、グシンスキーが3億ドルでメディア帝国を売る事にサイン。
7月27日、検察官が起訴をすべて取り下げた。
グシンスキーはその後プライベートジェットでスペインへ飛び、二度とロシアには戻らなかった。スペインにいる間グシンスキーは行った取引に対して考えを変え、チャラにしようとした。その結果ロシアの検察は国際刑事警察機構(INTERPOL)を通して逮捕状を出し、彼はスペインで二度拘束されている。しかしスペインの高裁はこの訴訟を棄却した。
翌4月、ガスプロムは取締役会議を開き、NTVの制圧に踏み切った。新しいトップが任命され、4月14日は武装したグループがNTVを制圧。同時にグインスキーが持っていたセヴィヨドナと言う新聞は廃刊となった。
グシンスキーは3億ドルを受け取るチャンスがあったのにも関わらず、それを不意にしてしまった。プーチンと戦えると思っていたのだろうか。
彼は完璧に終わった。
グシンスキーは一人目に過ぎなかった。他のオリガルヒたちは自分だけは助かると思っていたがそれは悲しいミスだ。そんな風に楽観的に考えていたのはボリス・ベレゾフスキーで、最もプーチン当選に向けて尽力した男だ。ベレゾフスキーはプーチンに恩を十分売ってあったので、免罪だと思っていたのだ。告訴を聞いた時、彼はこう答えている
プーチンがオリガルヒとの会談で言ったように、ゲームのルールは新しくなっていた。ベレゾフスキーが次だ。
8月、プーチンはテレビ局が国や陸軍、海軍までも破壊していると言った。クレムリンの大統領府長官アレクサンドル・ヴォローシンがベレゾフスキーに”ORTを2週間以内に手放さなければグシンスキーと同じになるぞ”と言うと、ベレゾフスキーは”そんな風に話さないでくれ。私はグシンスキーじゃないんだから”と答えた。
ベレゾフスキーはプーチンと直接面会をして事の真相を探る事にした。彼は説得すれば大統領が心変わりするぐらい自分に権力があると思っていたのだ。
プーチンはベレゾフスキーに”ちょうど話したいことがあったんだ”と言ってファイルを開いた。プリマコフが前回ベレゾフスキーを捜査させた時の資料だ。プーチンは淡々とORTの汚職内容が書いてある書類を読み始めた。ベレゾフスキーは驚愕した。プーチンは本気だ。本気で取引しようとしている。
ベレゾフスキーはむやみに戦うと刑務所行きになる事に気が付き、ORTの資産を売ってロシアを後にした。
ロンドンへ逃げてもトラブルが続き落ち着くことはなかった。ロシアの政治に影響を与え続けたいと言う衝動が抑えられなかったのだ。彼は権力と政治に中毒になっていた。持っているカネと共にひっそりと暮らすのは性に合わなかった。それが彼のさらなる転落を招く。
2002年、ロンドンに滞在していたベレゾフスキーは新しくリベラル・ロシアと言う政党を立ち上げた。ベレゾフスキー出資の野党である。しかしベレゾフスキーはロシア国民に人気が無かったため初めから勝てるチャンスは無かった。ベレゾフスキーはクレムリンを非難、さらに1999年に起ったアパート連続爆破事件をロシア連邦保安庁(FSB)のせいだと非難した。2002年にチェチェンの反政府勢力が起こしたモスクワ劇場占拠事件ー129人の人質が死亡した事件ですらFSBが裏にいると騒いだ。プーチン政権はこれについて情報を公開する事で応じた。公開した資料には、ベレゾフスキーがチェチェン分離派と近い関係にあり、資金援助していたことが書かれていた。
クレムリンはベレゾフスキーがこざかしかった。2003年3月、ベレゾフスキーは車販売会社ロゴバズに関する詐欺罪でロンドンで逮捕され、ロシア側は身柄引き渡しを要求した。
セーフ・ヘイブンのイギリスに居るとはいえ、ベレゾフスキーが初期のロシア国民への詐欺で罪を償う可能性は高かった。
ベレゾフスキーは起訴逃れの一環で、2003年の4月にロシアの議会選挙への出馬を表明。ロシアの下院議員になれば議会特権が得られる。
しかし努力は実らなかった。彼には支持者は残っていなかった。ベレゾフスキーは過去のロシア政治を動かせた時代に固執しているギャンブル中毒者のようだった。ロシアに戻れば刑務所で人生が終わる可能性が高かったし、殺される可能性もあった。彼が過去に何をしたのか知っている人々は、彼と戦えるレベルの地位になっていた。もちろん許すわけがない。
非難されると”反ユダヤ”
もちろんプーチンの派手なオリガルヒとの闘いは、”反ユダヤ”のレッテルがもれなくついて来た。オリガルヒのほとんどがユダヤ人なのだから、ユダヤ人を標的にするのは当然のことだ。
プーチンは単純に犯罪者を追っていただけだと言う人もいるし、スターリンのユダヤ弾圧と同じ事をしていると言う人もいる。
スターリンはユダヤ教が嫌いでユダヤ人を嫌っていたのではなく、彼はユダヤ人を”信用できない人々であり、権力を脅かす”と捉えていた。プーチンの取り締まりはロシアで彼の人気を押し上げた。取り締まった対象がユダヤ人であったとしても、ロシアの国民には関係なかった。
ユダヤの詐欺師たちが、ロシア国民に属する富をだまし取りそのカネでロシアのメディアを買収して政治をコントロールしたとほとんどの人々は考えていた。
一部のユダヤ人ですらこの件がユダヤ人にとって良かったと評価していた。何故ならロシアのメディアがユダヤ人にコントロールされていると言うイメージを払拭できるからだ。そしてロシアの社会の中で、反ユダヤ人の感情を和らげるのではないかと考えたのだった。
プーチンは非常にうまいやり方で、”反ユダヤ罪”から逃れた。ユダヤ人のグループを分割し、サポートしたのである。
2001年1月23日、イスラエルの大統領モシェ・カツァブがモスクワを訪れた。これはプーチンにとってロシアのユダヤ教における正統派ラビを任命するチャンスになった。カツァブの歓迎の際、ユダヤ教主任ラビを争っているベレル・ラザールが唯一招待された。ラザールはラビのトップの座をアドルフ・シャイヴィッチと争っていた。シャイヴィッチはグシンスキーが創設したロシア・ユダヤ議会に近い人物だ。ロシア・ユダヤ議会は自分たちの利益を高めるためにユダヤ人を結束させる目的があった。一方ラザールは正統派ユダヤ教の世界的運動であるシャバドを担った人物であり、ユダヤ人コミュニティ連盟のトップだ。
クレムリンはラザールをラビのトップに任命し、ラザールはその方針に従う。クレムリンがユダヤ人の声が欲しい時には出てきてクレムリンを支持する。クレムリンのコントロール下のラビがロシアのラビのトップである。ラザールはロシア政府が”反ユダヤ罪”で非難されそうな時にロシア政府を弁護し、スターリン賛歌の復活ですら支持を表明した。
現在、プーチン政権が”反ユダヤ”だと非難されそうな時にはラビのトップを呼ぶ。軽くロシア政府サポートの声明を出させればそれで済むのだ。
プーチンはどこまで進むのか
もちろんプーチン政府はオリガルヒの残党の始末をし続けるのかが注目される。オリガルヒの取り締まりは、ロシアの情報をコントロールし、国民の支持を集める為に行っているのではないかともささやかれている。
確実なのは、プーチンの政策はロシアでものすごい人気があると言う事だ。様々な政策により、ロシア国民に”やるべきことはやる”政権だと十分伝わったのではないだろうか。エリツィンの時と違って。
ちょうど再選が決まったプーチンが試されるのはこれからだ。プーチンは2期目に入り、もっと自由に政策を行い、ロシア国内にプーチンの気に入った人々をリーダーとして置くことだろう。
現在ロシア政府は、言う通りに行動できるオリガルヒは残しておく方針のように見える。例として、石油王のローマン・アブラモヴィッチは、チュクチに移住して知事になった。彼は自分の資金を地域の発展のために使い、外国との取引を拡大させた結果、外国からの投資が集まった。アブラモヴィッチは、他のオリガルヒと違い、政府にに対して影響力を持とうという姿勢が見られない。それが一番重要な点だ。
アブラモヴィッチがチュクチに移住した後、地元住民が彼の行動が理解できないと嘆いていたのを私は覚えている。一説にはアブラモヴィッチはシベリアに行って知事になり人々を助けるか、シベリアに囚人として行くかの選択を迫られたと言われている。そういった裏交渉は行われていただろう。長い目で見れば腑に落ちる話だ。生き残ったオリガルヒは、プーチンのルールに従わない者がどうなるのかは見て来たから知っている。
とは言え、アブラモヴィッチが完全に不起訴の特権があるとは言い切れない。最近彼の過去の企業取引について捜査が行われていた。アブラモヴィッチはイギリスに移住し、イギリスで最も豊かな住民となり(ウェストミンスター公爵より50%も資産が多かった)サッカーチームのチェルシーのオーナーになった。
一見この静かなクーデターは成功し、ロシアの治安は保たれているように見える。現在のロシアは全く新しいプレーヤーにより展開している。エリツィン・ギャングよりもよっぽど優れた選手たちだ。プーチン大統領とそのチームが心からロシア国民の利益を優先し、ロシアが国として目覚め始めたのだと願わずにはいられない。プーチンの方針は長期的な未来を見据えたもので、この先も慎重に縦横無尽に続いて行くと信じている。ロシアの政治は当初思い通りにはならなかったが、プーチンはこの先も敵をかわしつつ、敵同士を戦わせていくだろう。スターリンも同じ事をやってロシア社会でのユダヤの権力を弱体化させ自分の権力を固めた。
プーチンは公に言うべきことを言い、長期的な政策を実行していく。
大きく見れば、新しい統治者たちは、エリツィンと”西寄りの改革派”とユダヤ・ギャングが目指したロシアとは全く違う方向へと舵を切ったのだ。
プーチンの2期目は、我々が知りたかった答えが見えて来るかも知れない。
2004年6月ー初パブリッシュ
面白かった引用文献・調べてる途中で見つけた面白そうなサイト
アンネ・ウィリアムス ロシア強姦 1999年アメリカ下院での証言
Anne Williamson, “The Rape of Russia,” testimony before the Committee on Banking and Financial Services of the U.S. House of Representatives, Sept. 21, 1999)
理解を深める為に読んだら良さそうな本↓(英語)
David Hoffman, The Oligarchs: Wealth and Power in the New Russia
1996年ロシア選挙広告まとめサイト
https://www.bleedingheartland.com/2016/06/16/throwback-thursday-best-and-worst-1996-russian-presidential-election-ads/
プーチンが大統領代理になった2000年1月1日の記事
https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2000-jan-01-mn-49592-story.html
ベレゾフスキーの復讐劇ドキュメンタリー3時間(英語)
https://www.bitchute.com/video/5Hd8ONExYd2p/
この記事以前のロシア-ユダヤ闘争史 (3/10追加)
お疲れさまでした!
Jano考察
メディアで国はどうにでもなってしまう
アタシがビックリしたのはメディア乗っ取りの目的でした。金儲けは関係なく政治への影響力の為のメディア。報道なんてするつもりは無いわけだね。
ジャーナリズムは弱い人の声を届けるものなのに、権力者の声を届けるモノになってしまったら意味ないよね。
さて、日本のテレビ局や新聞はどれぐらいカネで乗っ取られているんでしょうか。
日本のメディアが政府のツールだと言う事は知られているようです。この経済解説動画(英語)で指摘されているように、2013年の特定秘密の保護に関する法律が制定されてから、メディアは政府批判などを報道できなくなりました。なので海外の人は日本の情報を探るのは難しいと動画では言われています。
メディアが政府のツールだと仮定すると、何故岸田政権は統一教会と自民党裏金問題を積極的に報道したのかが疑問です。日本の政治見ないから分からないけど、自民党内を分断してある一派を追い出そうとしているんじゃないかな。全体主義へまっしぐら~~~
アメリカ政府の乗っ取られっぷり
ロシアのオリガルヒが目指していた事が、アメリカでは完成しています。置物大統領を置いて、政府を動かしているのは・・・
注目すべきは、選挙で選ばれていない人たちって事ですね。
もし、プーチンが2000年にオリガルヒを退治しなかったら、今のアメリカになっていたでしょう。
アメリカメディアの乗っ取られっぷり
権力をほしいままにするならメディアコントロールは鉄板!アメリカのメディアも全滅ですね。いやいや、ロシアはこれになる前にプーチンが出て来て本当に良かった。
ロシアが乗っ取られたのは数年間だったので、こんなに増えませんでした。
ベレゾフスキーとグシンスキーの富の種類
記事の中で出て来たベレゾフスキーとグシンスキーの戦い方と儲け方の違いが面白かった。エリツィンの政治仲間とつるんでいたベレゾフスキーが保有財産金額で負けています。政治仲間と言うのは富裕層です。富裕層の中でカネを回しても増え方が弱い。一方、モスクワ市民の為に頑張っていた市長とつるんでいたグシンスキーは財産で圧倒的勝利です。ルシコフ市長は企業に圧力をかけ、市民がきちんと給料を受け取れるようにしてた人です。
つまるところ、一般大衆の為に頑張った方が富が集まるって事ですね。資本主義社会だと、企業や資本家に重きを置きますが、労働者階級を重視した方がWin-Winが成り立つんでしょうね。
ロシア流の取引ーWheeling Dealing
グシンスキーが嘆いていたところです。
”行先は俺らが決める -ロシア流だ。”
これは原文がWheeling-ハンドルとかホイールとDealingー取引が合わさった言葉で、運転席に乗ってるのは俺らだと言う意味だと解釈して訳しました。
ロシアの交渉ってホントこれだ~~恐ろしーと思ったのが、選択肢が一つしかないように追い詰めるんですね。
ウクライナに対して中立化しか選択肢はないし、NATOが武器送る以外の選択肢がないのも分かる。
アメリカは制裁を続けるしかない。
ロシアーウクライナ紛争は続くとワタシは予想
今回翻訳していて考えたのは、ロシアのオリガルヒは結構行き当たりばったりなんですね。その行動が後にどうなるかはあまり考えてない。だからできる時に儲けてボロが出たらその都度誤魔化すって感じ。
それを今のウクライナ紛争に当てはめると、この紛争は終わらないんです。何故なら自分たちの武器(ユダヤ資本=ドル)を使えばロシアが潰れると本気で思っていて実行したけどその作戦は失敗しました。
バックファイヤーを喰らった挙句、世界中が「おい、ドル持ってるとやべーぞ」ってなり、人民元に流れました。BRICS通貨への期待も高い。
では、自分がシオニストだったらどうするか?って考えると、武器(ドル)の信頼回復しか道がないわけです。人民元と張り合うのもプライドが許しません。黄色人種だし。ロシアの影響でドル離れが進んだのなら、ロシアに潰れてもらえばいいと言う安直な決断をしそうだな~と思ったら、ヌーランドが辞任(解雇だろー)しましたね。これは、ロシア潰すしかねぇの現れではないかと思いました。同時にNATO兵を出すような噂もチラホラ・・・・
ドルと言う武器が使えなかったので本当の武器を使う気なのかも。
そしてプーチンはどんな対応をするのかとさらに予想の予想をすると、ウクライナだろうがNATOだろうが確実に削って行くでしょう。ミサイル一発迎撃すればオリガルヒのカネ(労働者層から搾り取ったもの)が燃えて無くなるだけです。カネをバンバン打ち上げてくれるのだからプーチンにはこんなに楽な事はない。バイデン♥ラブなのもうなずけます。
パレスチナ問題はどうなるか予想
今回のイスラエルとアメリカの立ち位置を見ていると、アメリカがイスラエルの属国になってたんですね。ブリンケンなんか、イスラエルが残虐すぎて逆に困っている。
オリガルヒ視点で見ると、中東をグチャグチャにしておけば、中国の一路一体が頓挫すると言うメリットがあります。当然ガス田奪うのも、輸出経路をイスラエルだけにして儲けるのもパレスチナ人が邪魔なわけで、世界から大非難されても構わない。ここでもまた行き当たりばったりな感じがうかがえます。ちょっと考えればイスラエルが国交を絶たれたり、イメージが悪くなるのは分かると思うんだけど、ドルと言う武器を失った状態だと引くに引けない。パレスチナ人をどかせば、なんとかなるんじゃないかと言う希望しかないように思えます。世界でアンチ・アメリカが増えて行く方がまずいと思うんだけども。
ロシアに制裁が効かなかった事でパニクったオリガルヒが自分の首を絞め続けています。でも他に道がないんじゃないかな。
どちらにせよ人類として考えた時、同族を殺す集団は淘汰されると思います。
ベレゾフスキーは自殺前にプーチンに謝罪の手紙を送っていた
ベレゾフスキーはイギリスに逃げてからあの手この手でプーチン政権の転覆を狙いました。ウクライナのオレンジ革命はベレゾフスキーがお金を出しています。ウクライナのメディアも買収していました。でもことごとく失敗。
2013年に自殺する前、持っていた物を売るほどお金に困っていました。そんな中ロシアに帰りたかったらしく、プーチンに謝罪の手紙を送っていたそうです。
この件に関してクレムリンは手紙の存在を確認、当人に渡したとのこと。
ベレゾフスキー陣営は当初疑っていたけど、本人の彼女が証言しました。
クレムリンは手紙の内容を個人的なものだとして公開していません。
強いリーダーとは
ロシアの混乱はおよそ10年で終了しました。発展の道から外れてしまっていたけど力強いリーダーにより軌道修正。
日本はアメリカに財を吸われ続け、急に戦争に加担したり、武器輸出をしたり国民に毒を打ったりおかしな事をしたけれど、悪いモノは淘汰され、人類が元々持っている調和とか共存へ向かうのは自然の秩序です。
強い政治家は待つだけでは現れません。国民一人一人が理想のイメージを持てれば、そういう人が必ず出て来ます。リーダーは望まないと出てこないんです。ロシア国民は望んでいた。だから現れた。
かつ丼を食べたいのならかつ丼を思い浮かべないと目的を達成できないのと同じで、いいリーダーが欲しいのならいいリーダーを思い浮かべないとね。
オマケ
2000年のプーチン大統領初の大統領就任式↓
1999年まだ首相だった時のプーチン
エリツィンの辞任声明