日本の『支援』をアップデートする
今朝、SNSで子育て中のママさんがイギリスの小学校で目にした、心温まる光景の話を聞きました。
【玄関先には、バターを塗ったベーグルがたっぷり入った箱が置かれており、子どもたちは自由にそれを手に取ります。先生たちもベーグルを片手に、笑顔で子どもたちを迎えています。
「朝食を食べるのが大切だから、食べられない人はどうぞ」という支援のための仕組みではありません。誰でも自由に手を伸ばせる環境だからこそ、本当に支援が必要な子どもも、周囲の目を気にすることなく手を伸ばせる…】
この「誰もが手に取れる」自然な共有の仕組みが生み出す安心感。
日本でも、こども食堂や学校給食など、子どもたちの支援を目的とした取り組みが多数存在して久しいですが、
「支援される側」と「支援する側」を明確に分けてしまうことが往々にしてあります。
たとえば、「本当に支援が必要な家庭かどうか」の線引きが議論されたり、支援を受ける“特別な事情“という烙印を子どもたちに課すし、「ひとり親、シングルマザーの貧困家庭に食事支援を…等と、相対的貧困という言葉がある国では『助けられることは恥』だと感じさせられる…そんな大人たち、子どもたちの声はなかなか支援する側には届きません。
日本の支援をアップデートするために必要なのは「支援」という事が「特別な行為」ではないことを日常の一部に溶け込ませることではないでしょうか。
たとえば、イギリスのベーグルのように、何かを必要としているかどうかに関わらず、誰もが気軽に利用できる仕組みを広げること。
実際、他国でもそのような取り組みが進められているようです。例えば、アメリカでは、公立学校の「ユニバーサル学校給食プログラム」によって、全ての子どもたちに朝食と昼食を無料で提供しているとか。この仕組みは、「誰かを助ける」という特別な目的ではなく、すべての子どもが平等に食事を得られることを目指しています(Eleminist, 2023)。
また、マレーシアでは2020年から、公立小学校で無償の朝食提供プログラムが導入され、栄養バランスを整え、すべての子どもが健康的に成長できる環境を整えているそう(JETRO, 2019)。これらのプログラムに共通しているのは、「支援されている」という意識を最小限に抑え、誰もが自然に利用できる空間をつくるという発想です。
イギリスの小学校のベーグル、日本のこども食堂、アメリカやマレーシアの学校給食。これらに共通しているのは、食事という基本的な安心感を提供する仕組みです。ただし、日本の支援の多くは、明確に「支援される側」と「支援する側」が分けられています。
ミシェル・フーコーは『異常者を監視する社会』や『狂気の歴史』の中で、社会が逸脱者をどう扱うかについて考察していて、日本では逸脱とされる事(例えば、貧困、ひとり親、不登校、障害)がスティグマとして機能し、それが個人に「恥」という感情を抱かせます。このスティグマは単なるラベルではなく、社会的な監視や排除のメカニズムの一部です。
これをアップデートするためには、「誰もが手を伸ばせる仕組み」を広げること。
こども食堂であれば、無料や低価格で食事が提供されるだけでなく、地域の誰もが参加しやすい交流の場として機能しますし、学校給食であれば、所得による線引きをなくし、すべての子どもが等しく食事を楽しめることが必要です。
「助けられている」というスティグマが抑えられ、その時々で本当に支援を必要としている人たちが気軽に利用できる様になるでしょう。
支援を「特別な行為」ではなく、「当たり前の日常」に変える。そのためのヒントが、これらの海外のエピソードの中にあるのではないでしょうか。
引用元
• JETRO. (2019). マレーシア、学校給食で無償朝食プログラム開始
• Eleminist. (2023). アメリカのユニバーサル学校給食プログラム