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学校という呪い


現代の日本で不登校で悩まない親子はいない。

親は悪戦苦闘してやっと本質に辿り着く。子どものしあわせだ。

子どもが生まれてきた目的は学校に行くことではない。

学校信仰に洗脳され、子どもの命よりも登校が優先される恐ろしさ。

私もかつてそうだった。👇

長女は幼稚園の頃から集団生活が苦手だった。

それなのに無理やり幼、小中高と押し込めてきた。

泣いてもわめいてもその内慣れるだろう…確かに子どもは順応する。だけど、

笑顔が消えた。

好きなものが何なのかわからなくなった。

自分はダメだと思う様になった。いわゆる自己肯定感がズタボロの状態だ。

何度も何度も私に訴えていた。頭が痛いよ、お腹が痛いよ、苦しいよ…何年も何年も…だけど、

私は彼女のウェルビーングよりも学校に通わせることに必死だった。教師も医師もカウンセラーも、誰も彼女を見ていなかった。👇

長女は何とか高校まで通った。休み過ぎて卒業が危うくなった時、担任に、

『まあ、健康をとるか無理しても登校するかしかないですよね』と冷たく言われた。

中高一貫だったから、5年半通った、あと半年で卒業という時期にこの言葉。

私は『辞めてもいいよ』
娘『こんな事(ただ卒業する事)すら叶わないのか』と
這う様に登校した。病気でもないのに薬を飲まなきゃならないの?と。

命からがら卒業出来た。そして👇

適応障がいを発症した。これが12年間、いや、幼稚園時代を合わせたら15年間で私たち親子が得たものだ。

その後の地獄の様な日々…生きてても仕方ない、何もやる気が起こらない、リビングで涙を流しうなだれる娘。

彼女は何のために生まれてきたのか、私は親として何という罪を犯したのか。悔やんでも悔やんでもやり直しはきかない。

風前の灯の様な娘の正気のなさ。自分を恨んだ。

子どもは自分の訴えを聞いてもらえなくなると諦める。大人に訴えなくなる。きっと笑顔にもなるだろう…だけどある日突然消えてなくなる。

そんな背景を知りもせず、画一的な制度の中で生き残った日和見菌もといモブキャラたちが学校という過去150年で国家を洗脳してきた狭い狭い制度の中で権威を振りかざし、

少しでも不登校の子どもが社会と触れ合える様に、と修学旅行に挑戦する姿を見て、短絡的に非難する、

『狡い!』

教育大綱では「豊かな心を育む」「社会や自然との調和」「共生できる力」を強調しているが、実際には画一的なルールや競争意識が先行し、子どもたちに我慢と適応を強いる場になっている現状、文科省の掲げる理念と現実の学校現場が乖離しているのは明らか。

結果、多様な価値観や個々の個性が尊重されず、子どもたちが苦しんでいる。教育の本質から逸脱している。

私は、そんな上部だけの学校制度を崇拝し、文科省の掲げる教育を逸脱したまま子どもたちに我慢を強いる学校信奉者たちの怠慢を絶対に許さない。

真の教育は、子どもたちが自分らしく生き、それぞれのペースで成長するための場であるべきだ。子どもの自殺が低年齢化する昨今、不登校に悩む親たちは今一度考え直してほしい。

本当に学校に行かせたいですか?

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