見出し画像

マッチングアプリで焼き鳥を食い逃げされた私だけが知る恐怖体験

「悪い悪い、待ち合わせ前に一杯飲んじゃったよ〜」

合流するやいなや、待ち合わせ場所の銅像の前で初対面の彼がヘラヘラと笑う。先に飲んでいるなどと聞かされていなかった私は、驚きと困惑の表情をつくる。

彼の目は赤く充血し、足元はふらついている。仮に本当に一杯しか飲んでいないのであれば、ジョッキ一杯ではなくバケツ一杯のことだろう。今すぐにアルコールチェッカーで呼気中のアルコール濃度を測ってやりたい。

「あ、ジェーンちゃん、ヴィトン好きでしょ? 俺、人の心読めちゃうんだよねえ〜」

彼はろれつの怪しい口調で得意げにそう言ったが、私の胸元には「V」のアルファベットが型どられたチャームの付いたネックレスが揺れている。もはやボケなのかマジなのかもわからない発言に一応ツッコミを入れていると、彼が意気揚々と言った。

「おすすめの店、こっちにあるからついて来て!」

そう、今日は彼のおすすめの店に行くために、片道1時間ほどかけて東京の最果ての地にやってきたのだ。折りたたみ傘では足りないほどの雨が降る中、彼の背中を追って何度も何度も細い路地を曲がると、ふと彼が立ち止まった。

どれほどすてきな店に到着したのかとワクワクしながら顔を上げると、そこには全国にチェーン展開する、”客を貴族のように大切にしてくれる焼き鳥屋”の看板が眩しいほどに光っていた。

”客を貴族のように大切にしてくれる焼き鳥屋”の具体的な店名を挙げることは避けておくが、この店は大好きだ。安くておいしくて学生時代からよくお世話になっているし、確かにすてきな店であることは間違いない。しかし、この店ならもっとアクセスのいい駅にもあったはずだ。

「2人で〜す! 入れる〜?」

酔っぱらった人間にしか出せない陽気なタメ口が店内に響き、数名の客がちらと振り返る。彼は会計を待つ客にぶつかりながらズカズカと案内された方へ向かい、同年代と思われるカップルの隣の席に座った。

エンジン全開の彼は次々とハイボールを飲み干し、すでに目は座っている。ありきたりな口説き文句を言ってみたかと思ったら、お下劣すぎてとてもここには書けないような下ネタを何度も繰り返し、しまいには隣のカップルにまで絡み始める。カップルも最初こそ笑顔で応えていたものの、その表情はだんだんと苦笑いに変わっていった。

「人に迷惑かけないで、もう飲み過ぎだから帰ろう」

見かねた私はそう告げる。一刻も早くこの店を出て彼をタクシーに乗せることを決意し、ジョッキに残ったサワーを一気に流し込んだ。

すると彼の態度が一変した。ついさっきまで舐めるように私を見つめていた目を逸らし、体を横に向け頬杖をつく。私が彼の行動を否定したのが、相当気に入らなかったのだろう。絵に描いたようにふてくされていた。

「ちょっと電話かけてくるわ」

そう言って彼はスマホを耳に当てながら立ち上がった。
厳密に言うと、スマホを耳に当てながら、すべての荷物を抱えて逃げるように立ち上がって店の出口へ向かった。

まさか。
そのまさかであった。
彼はその後2度と店には戻ってこなかった。

取り残されたテーブルには、伝票と、彼が食べ散らかした唐揚げの衣がぼろぼろと転がっていた。その衣を集めて小皿に乗せていると、先程のカップルが声をかけてくれた。

「あの人ちょっと怖かったし、何事もなく解散できてよかったですよ!」

私はその言葉に救われた。
歳が近かったこともあり、その後カップルとは意気投合。また飲み直そうと3人で連絡先まで交換した。職場で出会ったという2人はもう何年もの付き合いで、同棲の話も進んでいるらしい。誰もが羨むラブラブのカップルであった。

カップルとの出会いに感謝しながら店を出ると、すっかり雨は止んでいた。男性に食い逃げされるという恐怖体験をしてしまったが、やさしいカップルのおかげで足取りは軽かった。

駅に着く頃、スマホの着信メロディが鳴った。今更謝られてもしょうがないと思いながらも電話に出ると、食い逃げ犯ではなく先程のカップルの男性からだった。

「さっき彼女と解散したんだけど、今からまた飲まない? ジェーンちゃんと2人で会いたいなって思っちゃった。ウチ、近いからおいでよ」

言葉を失った。
同棲を考える彼女がいる男性が、初対面の女性を家に招くとは何事か。あまりの衝撃に、私はただ断ることしかできなかった。残念そうな彼のリアクションを遮るように別れを告げ電話を切る。

ある意味、食い逃げをされる以上の恐怖体験だった。

帰りの電車に揺られる私の頭の中で、今日のできごとがぐるぐると巡った。下車まではまだ1時間近くある。日曜の夜ということもあってか、座席は半分以上空いていた。疲れ切った私は車両の1番端の席で、壁にもたれかかって目を閉じた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?