原理的想起に委ねる認知の同定

存在は認知者を必ずしも所有しない
・存在は認知者と関係性を保つ場合とそうでない場合があり、独立した部位と重複した部位を持ち、完全に重なる関係性に無いことは明白である。


認知者は必ずしも存在の存在性を明らかには認知しない
・認知者は存在のありのままを捉えることは不可能であり、必ず意識や視座により、同定するという作業の先にある為、殆どが存在の明確な姿を捉えないことは明白である。


この事から存在と認知の関係性は破綻していると言える。
認知はその瞬間においては常にその意識外から始まると言えるが、意識が認知をその意識において同定する事で始めて意識内にその形を形成するが、
これは意識が主体となり認知が手繰り寄せられ同定されるという形状を持つが故に混同しやすいが、
その動向の前後に認知が分離していると言える。


意識において起きる認知と意識を離れ行われる認知があり、存在性のみが唯一その束縛を受けない
・存在と存在性の違いである、存在性とは意識において繋がれた経験を持たないが、存在は常に意識において繋がれており、意識は認知と存在を同時に分離させその瞬間に時間はそこに発生する形式を持つ。


本来存在が受ける束縛などないが、
束縛を受けた存在を存在と呼び
束縛を受けない状態の存在は存在性と言うことができる。



もし仮に、何者かが、
それはモノでも良いとして、
存在的に軋轢を感じるとするなら、

それは自己という存在性をそもそも意識という
選別機に放り込むという処理の後に同定していることになる。


これに習って言うなら
自己という存在はそういう意味で常に2つあるとも言える。


あらゆる意識を免れた真に自由の内に包括されたその存在性と、認知という何らかの鎖に繋がれた存在と。


存在性が存在として初めて存在した時、
それはもはや繋がれた存在となる。


結果、存在は全て繋がれている。


確かに認識を脱した存在としての存在性はあるが
その意味性は常に存在性と同期される。

意味が存在の本質つまり存在性を正しく同定できないのには、認識という罠があるためであり、意味性は思考において正確に紡がれることはないということでもある。


・意味性は常に無意識な認識の中で捉えられ、
その正確な認知は思考を脱したときにある時突然に訪れる。

・『その偶然性を招く想起』は偶発的思考の中で常に起きる可能性にある。


それは、想起だけが、常に存在性のそばにあるからでもある。

想起は存在と呼べるほど明確な糸口を持たない。
しかし想起といえども人為的想起と、原理的想起があり、今や人為的想起と神為的想起は同じことを指す。
一方で原理的想起とは、真意的想起とも呼べる。

つまりは想起は真意の管轄に入る部位を所有している事になる。


原理の中に

意識を落とし込むことで、

認識を落とし込むことで、

認知は変革を迎え原理的想起は誘発される。


『真意は神を人を、脱することで始めて触れることができる。』


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