『少女は卒業しない』への批判への反駁
一部で上がっていた不評の声に対するアンサーを書いておきます。
▼タイトルが矛盾してる?
曰く、「少女は卒業してるやろがい」とのこと。
うーん、分かる部分もありますが。(苦笑)
以前にも別記事に書いたのですが、対偶命題を考えるとこのタイトルで適切になると思います。つまり…
命題:少女 ⇒ 卒業しない
対偶命題:卒業する ⇒ 少女ではない(大人の女性である)
対偶命題とは原因と結果の位置を入れ替えて、それぞれの要素にマイナスを掛けたものです。だから「卒業しない」は結果から原因に移動して、中身も「卒業する」にひっくり返ります。「少女」も「大人の女性」にひっくり返します。
対偶命題はよく証明に使われるテクニックです。命題と対偶命題には、命題が正しければ対偶命題も正しくて、対偶命題が正しければ命題も正しい、という関係性があるので、学問のジャンルではある命題の正しさの証明が難しいときには、対偶命題の正しさを考えることがよくあります。
令和4年4月、日本では成人年齢が20歳から18歳に引き下げられましたが、これは高校卒業するときに達している年齢(厳密には3月卒業式翌日〜4月1日生まれの人にはタイムラグが生じる場合もありますが)です。つまり「大人になったから卒業する」のが高校です。
逆に言えば、高校とは「大人になった少年少女を(単位さえ満たしていれば)強制的に卒業させる場所」だとも言えます。
映画『少女は卒業しない』では、まさにこの「強制卒業」がテーマになっています。劇中で後藤と倉橋が自転車に乗りながら「卒業さえなければさあ、このままずーっと一緒にいられるのにね」と叫んでいるシーンは予告編にも使われていました。
つまり主人公4人が、半ば強制的に、時の流れに押し出されて、少女から大人の女性になるのを描いた映画ということになるのです。
ちなみに、本作の英語タイトルは『Sayonara, Girls』となっており、まさに「少女にサヨナラ」という意味になっております。これは私も後から知って驚きました。(笑)
●今なら監督の見解もチェックできるよ
3月23日に都内のほとんどの劇場で上映が終了してしまうのを前にしてか、ここに来て中川駿監督のTwitterの更新頻度が上がっています。
映画のテーマ、というか監督の演出意図を理解するのに有用すぎるので、ぜひ他のツイートも確認されることを推奨します。ここでは特に重要だと私が思ったものを厳選して貼っておきます。
▼クライマックスが物足りない?
曰く、「盛り上がりに欠ける」「4人の話が合流しなくて不満」とのこと。
うーん、分かる部分もありますが。(苦笑)
本作では河合優実が演じる山城まなみが答辞を読むことに3人の少女が感化されてアクションを起こす、というストーリーにはなっていますが、基本的に4人の物語はそれぞれ独自に進行し、4人が言葉を交わすシーンは最後まで一度もありません。このため「クライマックスで4人のストーリーがどう交わるのか」と期待して観ていた人には、どうしても消化不良になってしまうでしょう。
ほぼ唯一の例外は、●●の●●に惹かれて体育館に駆けつけた●●ですが、それだけだと物足りないと感じる人はいるでしょうね。
しかし私は、派手さやドラマチックさで強引に感動させようとしない「真摯な描写」が大変心地よくて、とても楽しめました。
4人が交錯するようで交錯しないのは実際の高校生らしい距離感だと感じました。監督はそういうリアリティを大事にしたのだと思います。
あと卒業って、誰にでも多かれ少なかれ満たされない想いや後悔を残すものですよね。そういう卒業が内包する本質的な物足りなさが、映画の構造にも反映されたか、あるいは観客が自身の記憶の片隅に残る寂しさと映画を重ね合わせた結果の「物足りなさ」なのかなと思ったりします。
▼歌が下手である?
曰く、「音を外している」のだそうです。
うーん、分かる部分もありますが。(苦笑)
そういうことじゃないんですよ、歌っていうのは。
歌というか、若さゆえの初期衝動というのは。
(※この先はネタバレ注意です!)
彼はロックバンドのボーカルですよ。
若者が慣れない舞台に立って、大勢を目の前にしている。その歌声から滲み出る緊張感や、若い声帯だけが出せるフレッシュな音色を味わうから良いんですよ。
あの20世紀最大のロックギターの神様であるジミ・ヘンドリックスだって1969年のウッドストックのフェスでは日曜の夜だったはずの出番がスケジュールが押しまくったせいで月曜の午前10時になり、徹夜明けでクスリとアルコールでフラフラで最悪のコンディションで演奏して、実際にあまり綺麗とは言えない部分がありましたが、それでもロックの歴史上で最高のパフォーマンスとして世界のロックファンから最も多く認められています。
そういう歴史における意味というのがロックにはあります。
で、最近になって監督のTwitterでも明かされた、これ。
嗚呼、だからあんなに緊張感がみなぎっていたのか、と納得できました。
つまり、あれは森崎(佐藤緋美)の「本物のライブパフォーマンス」だったわけですから。音楽のライブっていうのは本番が一回しかないんです。でもそこに代替のきかない魅力が詰まっている。それをリアルにカメラで捉えた瞬間だったんですね。
実は私はあのシーンで一点だけ不満がありました。森崎の歌声に惹かれて、体育館に駆けつけた山城の顔がアップになって「シュンにも聴かせたかった」と呟くシーンだけは照明なのかテンポなのか分かりませんが、何か空気感が違うなーと劇場で感じてしまいました。でも、これはおそらくあのシーンだけ別撮りしたからでしょうね。
これは逆に言えば、ライブパフォーマンスがリアルすぎたからでしょう。
まあどちらかを取捨選択するなら、あの映画は正しい撮影手法を選択していたと思います。全部嘘になるくらいだったら、一つだけでも本当の本物があった方が良いです。
なお、この映画への私の感想文はこちらに書いてあります。(『少女は卒業しない』が今年の日本映画トップレベルで良かった件)
興味が湧いたら、ぜひ読んでみてくださいませ。
了。
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