(r)adius ラディウスのあらすじ解説/西洋の宗教観を知らないと本質を理解できないかも
半径15m以内のあらゆる生物を突然死させる謎の能力を身につけた記憶喪失の男と、彼の能力を無効化できる同じく記憶喪失の女を描く、SFミステリー映画です。特殊能力の描写に派手さは無いですが、雰囲気は抜群に良くて、個人的には「『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部を実写化するならこんな仕上がりにして欲しい」という感じでした。
私は楽しめたのですが、映画.comなど批評サイトを見ると結構評価は割れているようです。「もっと面白くできたのに残念」みたいな上から目線のコメントが目立ちます。個人的には”代案なき否定”が一番ダサイ批評だと思うのですが。(笑)
ところがIMDbやロッテントマトのスコアはそんなに悪くありません。むしろ高い方です。ここから、本作は西洋の宗教観を知っているかどうかで評価が変わる映画だと思いましたので考えをまとめます。
▼あらすじ:
ここから先は本格ネタバレありで考察していきます。
FIN
すごーく面白いじゃないですか!
映画の技法としては2つのジャンルをツイストさせた作りになっていて、映画の下敷きにはキリスト教らしい宗教観がガッツリ引いてあって、とても味わい深い作品になっています。
▼日本人に不評な理由:
日本人が納得できない最大のポイントは、第2幕で明かされた2人のオリジン(落雷と宇宙飛来物)や突然死のメカニズムを、第3幕で全く深堀りせずに無視して、そのまま別の話題(連続殺人)だけで物語を展開して終わらせたことでしょう。
「ちょっと待って、あれ何だったのよ?」
という気持ちで置いてきぼりにされてしまうのかと。
ただね、これこそ西洋的な宗教観なのですよ!
▼西洋の宗教観でラディウスを解説する:
●Godとは何か:
映画『ラディウス』を深く理解するには”God”の理解が不可欠です。
神の英語訳であるGod(ゴッド)ですが、日本の神(カミ)とは別物です。数年前にトイレの神様なんて曲がJ-Popでヒットしましたが、日本の伝統的な風習では形あるものの中にカミを見出します。一方で、西洋でのGodは形がない存在です。日本のカミは形が先で、西洋のGodは形が後です。まずはこれが理解の出発点です。
日本人からは、よくイエス・キリストと混同されがちですが、イエスは”神の子”なのであってGodではありません。同じくギリシャ神話のゼウスもしばしばGodのように日本では捉えられがちですが、ゼウスはGodの一つの見え方に過ぎず、言うなればゼウスはGodの仮の姿のような存在です。
余談ですがGodはキリスト教での呼び名であり、イスラム教とユダヤ教ではそれぞれAllah(アッラー)とYHWH(ヤハウェ)と呼ばれます。ただしこの3宗教は元々同じ宗教から派生して生まれたもの(かなり暴論ですが今はわかりやすさ重視ということで了承ください)なので、このGodとAllahとYHWHは本質的には同じものです。このnoteではGodで統一します。
なぜGodには形が無いのかというと、人智を超えた存在だからです。つまり人間の理解を超えた存在なので、人間が理解できる形に落とし込むことはできません。なので古代エジプトでは逆に極端にシンプルな円の図形で表現されたりもしました。
なお日本でもカミを語ることは畏れ多いという感覚はあったりしますが、日本では「祟られるから触れるな;触らぬカミに祟りなし」というハリポタのヴォルデモートのようなニュアンスがあるのに対して、西洋ではもっとシンプルに「人間の理解を超えているから人間の言葉や図形では表現できない=だから最初から諦める;考えるほうが野暮である」くらいの感覚になってきます。
さて、話をGodに戻します。
Godの基本的な考えというのは、人間に見えている世界を超えた”何か”が存在していて、この世界(空間)を満たし、この世界に大きな影響を与えているということです。だから太陽とか空気とか大きなものになりがちです。中世までであれば太陽/大地の果て/空の向こうの天国だったかもしれませんし、現代であれば地球外の宇宙空間かもしれません。
Godを表す形のある答えは永久に出てきません。だって人智を超えているのですから。人類に理解することは不可能なのです。科学が発展して人類の理解が広がれば、その都度Godの概念も広がることを繰り返して、永遠にその差は埋まらないでしょう。そのくらい大きくて、理解できない存在がGodです。最初から諦めるしかないのです。欧米人はその「諦める準備」が最初からできている状態だと言えるでしょう。
では、そんなGodはどうやって人間とコンタクトを取るかというと、何らかの方法で人間の精神に直接呼びかけてきます。これがGodの御心(みこころ)を知るということであり「啓示」とも言います。かつて預言者と言われた人達はそれが非常に得意だった(もしくはGodに選ばれた)人達であり、御心を民衆に伝えていました。イエス・キリスト氏もその一人です。しかし西洋圏では信仰があれば、啓示は誰にでも起きうるものであり、そのショックはしばしば落雷に喩えられることもあります。
●飛来物の説明が不要である理由:
ここまで順を追って説明してくれば、もう分かりましたよね?
映画『ラディウス』は、主人公2人(もしくはリアム1人)が受けたGodによる啓示を描いていたのです。
だから西洋の観客は宇宙から来た何かの詳しい説明がなくても、比較的簡単に受け入れることができます。まあそういうものだよな、という常識的な感覚があるからです。
一方で、日本人は宇宙から来た何かに科学的で人間に理解できる説明を求めます。無宗教で科学への信仰が強いお国柄だからこそ、そうなるとも言えるでしょう。これが日本の映画ファンで少なくない不評を買う要因だと考えられます。
日本人が電車やバスの乗り場で自然に列を作って待つように、欧米人はGodの思し召しであるならば無条件に受け入れる、心の準備があるのです。だからGodをテーマとした映画で、科学的な根拠を逐一説明する必要があるなんて、思いもしないわけです。日本人が説明されなくても駅で先に待っていた人を優先するのと同じ感覚です。
この文化の違いが面白いですね〜。
●映画ラディウスをGodの啓示として読み解く:
本作で最も注目すべきは第3幕で全てを思い出した直後のリアムの表情です。それまでの”頼りになる男”から一転、絶望に心が砕けて生きる気力を失った”無気力な存在”へと変わり果てる演技は非常に素晴らしいです。
第2幕までのリアムとは完全に別人です。演技力とメイクアップと照明と編集の合わせ技だとは思いますが、ほぼ同じ服装と髪型でここまで印象が変わるなんて驚きです。私がこの映画で一番感嘆したのはここでした。
それは、ある意味で、観客の期待を裏切る行為です。映画の主人公である男が実は極悪人だったなんて。そして、リアムにとって全く救いようがない悲しい結末。
ここまで特徴的な描き方をしているのは、ここに監督の意図や意義があるからです。
Godはそれほど大きな変化を与えることができる、という真理(教義?)を監督は描きたかったのでしょう。
(了)
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