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アナーキー・喺(係)・香港:「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」

「トワイライトウォリアーズは絶対に見た方がいい。見たせいで電気代払えなくなったとしても、絶対に見て欲しい」
友人からの強い言葉が決め手になった。
最近金欠で、優待券でもなければ映画に行っていなかったが、安い日を見計らって新宿バルト9に行くことにした。

映画のあらすじ

1980年代、英領香港の九龍城砦。
ここは、かつて英国の手が届かない清朝の要塞が置かれたことを皮切りに、公権力の目が届かないアナーキーな空間が形成されていた。

主人公のチャン・ロックワン(陳洛軍)は、大陸から流れ着いた密入国者である。
身分証を買うための金を作る必要があった彼は、黒社会(マフィアのような存在)の大ボス(大老闆)が主催する格闘試合に出場、見事勝利する。
大ボスはロックワンを雇おうとするが、黒社会に関わりたくないロックワンは拒否。

大ボスは当てつけに、賞金と引き換えに、あまりに杜撰な偽造身分証を渡す。もちろん、返金には応じない。
背水の陣のロックワンは大ボスの事務所から袋を盗み、逃走し、「九龍城砦」に迷い込む。
そこは、大ボスでも手を出すことができないロン・ギュンフォン(龍捲風)の縄張りだということも知らずに…。

以上がこの映画のあらすじである。
いや、本筋でもない大前提と言うべきか。

この映画の広東語のタイトルは「九龍城寨之圍城」。
これは「九龍城砦の包囲戦」とでも訳すことができるが、「九龍城寨」シリーズの一作目という位置付けであることも指している。
この作品の裏の主役は九龍城砦なのである。
だから、この物語は、ロックワンが九龍城砦に迷い込んでからが本番だ。

油麻地のフルーツマーケット周辺。大ボスの縄張りである。

アナーキズムと九龍城砦

印象に残っているシーンがいくつかある。

一つは、城砦の実力者ロン・ギュンフォンとの戦いに敗れ、満身創痍のロックワンを九龍城砦の人々が手助けするシーンだ。
逃げ延びた先のトタン屋根の上でロックワンが身を横たえていると、向かいの家の人が熱々のホットスナックを棒に載せて差し出す。
子供がジュースをくれる。
そして、顔にギプスをはめたセイジャイ(四仔)という医者がやってきて、アドバイスをくれる。

実際の九龍城砦がどんなところかは知らない。
現在更地となった跡地にも行ったことがない。
だが、もし仮にこのような「扶助」が行われていたとしたら、この土地は本当の意味で「アナーキー」な空間だと感じた。

アナーキズム、という考え方がある。
無政府主義と訳されることも多いので、政府転覆を図るテロリズムのように思われていることも多い。そう受け取られるような暴力行為に走る人々がいたのも確かだ。
とはいえ、それはアナーキズムの本筋ではない。

アナーキズムとは、言ってしまえば、「支配-被支配」の関係のない、搾取や抑圧がない世界を求める考えだ。
その結果として、権力をほしいままにし、人々から搾取を行う国家や大企業を批判する。

では、国家なくして秩序は保たれるのか。これは重要な問いだ。
有名なホッブズは、国家なくしては、人は「万人の万人に対する闘争」状態に入り、弱肉強食状態となるため、生きていくためには嫌でも国家が必要だと説く。
一方で、クロポトキンなどのアナーキストは、人間は他の動物同様、権威がなくても「相互扶助」を行うことができると説く。根拠として、アフリカなどに残る部族社会や、無政府状態に置かれた被災地などを例示するので、アナーキズムは文化人類学と相性が良い。

真偽はともかく、アナーキーな、巨大な権力装置による支配のない世界に不可欠なのは、人々による相互扶助なのだということは確かだ。
アナーキーとは、単なる無秩序ではなく、無秩序な中に、上からではない秩序、人々による相互扶助の活動がなければ成立し得ないという状態なのだ。

映画で描かれる九龍城砦を見ていて、私はこのアナーキズムの議論を思い出した。
不法移民に犯罪者、流れ者の集まりである九龍城砦は、秩序なき危険な世界である一方、倒れた人間に手を差し伸べる扶助の精神がある。
この映画の主人公、九龍城砦は、本当の意味で、アナーキーな空間なのだ。

ロン兄貴の「統治」

その、本当の意味での「アナーキー」さをさらに際立たせるのは、実力者ロン・ギュンフォンの態度だと思う。

冒頭で明かされるのだが、かつて九龍城砦は別の人間、ロイ・ジャンドン(雷震東)という黒社会の実力者が支配していた。その支配は、恐怖政治的だったと示唆されている。
それが、1950年代、ロン・ギュンフォンらが反乱を起こし、ロイを打ち倒し、新しい体制を作った。

では、ロン・ギュンフォンはどのような城砦支配を行ったのか。
見る限り、彼は人々の相談役、トラブルがあった際のアドバイザーにすぎない。
ロン自身の役職も、町内会長めいた「城砦福祉委員会」会長で、宮殿の類に住むわけでもなく、「革命」前から続けてきた理髪師の仕事をしている。
まさしく「ロン兄貴(龍哥)」というわけだ。

ロン兄貴は九龍城砦の実力者ではあるが、絶対的支配者、指導者ではないし、人々の暮らしに無理やり割ってはいることもない。
あくまで人々は、九龍城砦で生業を起こし、生活し、生きる。権力者は関わりないのだ。
ここに、ロン兄貴の九龍城砦がアナーキーな空間である所以がある。

跡を継ぐ者「たち」

ネタバレになってしまうのだが、ロン兄貴は話の中盤で命を落とす。
それからは、主人公のチャン・ロックワン、ロン兄貴の後継者スンヤット(信一)、医者のセイジャイ、別の黒社会の舎弟で彼らの親友サップイーシウ(十二少)らが敵討ちに奔走する物語にシフトする。
もちろん、筋の上で主人公はチャン・ロックワンだが、他のキャラクターもかなりキャラが立っていて、最後も、「ラスボス」と四人で対決することになる。

一方で、(あえて名前は伏せるが)敵は、取り巻きこそいるが、一人で君臨する。
玉座のようなものに踏ん反り返り、道士を侍らせ、「気功」をこれ見よがしに見せつけて、子供や住民を威圧する。
理髪店に収まっているロン兄貴とは打って変わって、その姿は魔力を備えた独裁者である。

九龍城砦で生活する人々も、そんな「ラスボス」を見て、愛想を尽かしている。
「いつかしっぺ返しを喰らう」と囁き合い、チャン・ロックワンらの帰還の噂が流れるや、色めきだつ。
四人の仇討ちは、ここにきて、九龍城砦民の仇討ちになる。
彼らは直接的な抵抗はしないが、不服従の態度でその意思を示す。

これはおそらく、冒頭の「ロイ」体制とロン兄貴らの反乱の構図を再現するものなのではないかと思う。
ロン兄貴も一人で戦ったわけではなく、ディック・チャウ(狄秋、秋哥)やタイガー(Tigar哥)らと共闘しているからだ。
権威に対するアナーキーの戦いが、この映画には見え隠れしている。

群像劇と香港

仲間たちで敵に勝つ。
それは一人のヒーローに頼るよりも「アナーキー」だといえるし、それこそが香港らしさのようにも見える。

例えば、別の国、インドの映画で似たような時代状況・設定の作品にカンナダ語映画の「K.G.F」がある。
こちらは1980年代のムンバイの成り上がりマフィアのロッキーが、K.G.Fという国の権力すら及ばない金鉱山を奪い取り、虐げられた労働者を解放し、王として君臨し、最後には国家権力とも一戦交える話だ。
個人的にはこちらも好きな作品なのだが、これはやはりみんなで一致団結というより、「世界(dunya)」を欲する一人の男の戦いであり、K.G.Fは「ロッキーの王国」だ。

九龍城砦で戦う男たちは、建国者ではなく、義勇兵の一団なのだ。
そう考えた時、以前読んだ野嶋剛の『香港とは何か』という本の一節を思い出した。

(…)香港には主役がいない。(…)舞台回しになる指導者やヒーローが、英国時代から現在に至るまで、香港には現れなかった。香港の主役は、無名の膨大な人間の群れであり、多義的な香港は、語り手によって十人十色に変化し、一つの枠内に閉じ込めることは容易ではない。

野嶋剛『香港とは何か』ちくま新書より

人間の群れが歴史を作る。
それはきっと「水のように」大組織をつくらずに闘争を続けた2019年の学生デモまで変わらずに続いてきた伝統なのだろう。
そして、移民や避難民など様々な出自の人々によって形成されてきた歴史を持つ香港とっては、それこそが自然だったのだろう。 

変わらないもの

物語の最後に印象的なセリフがあった。
それは、戦いを終えた若き後継者四人が、香港の中国返還に伴う九龍城砦解体に思いを馳せながら語らうシーンでの言葉だ。

「変わっていく中にも、変わらないものがある」

正確なセリフは忘れてしまったが、そんな言葉だったと思う。
変わらないもの。それはおそらく、彼らがロン兄貴から受け継ぎ、最後の敵から守ろうとしたもの。そしてきっと、香港らしさのようなものだろう。
それは、私が香港を訪れた時に感じたことと同じだった。

私が初めて訪れた香港は2023年の、デモもコロナも終わった時代だった。
そこにはもはや、有名なネオンサインも、水上レストランもなかった。
だが、重慶大厦を巡り、女人街を通り、裏寂れてしまった廟街を歩き、九龍公園を散歩し、香港島の坂道を登ると、決して香港がつまらない街になったわけではないと感じた。
それは、そこに住む人々がこの街の主役であり続けたからであり、お上が何を言おうと、この街の人々は自分の意志で行動し続けるように思えたからだった。
それこそがこの街のアナーキズムなのだ。極めて静かな戦いは今でも続いているのだ。

もちろん、この映画は「黒社会」を描くものであり、民衆の闘争を描くものではない。
時に武器を取ることはあっても、九龍城砦の人々はロン兄貴やロックワンらの戦いに対しては見守るに徹している。
そしてロン兄貴らも、「黒社会」独特のルールや粋を行動の規範としていて、それは必ずしも民衆のためにといった生やさしいものではない。結局は九龍城砦の支配者だと看破することもできるだろう。
だが、この映画はあくまで、おそらく実際に存在する黒社会の残忍さよりも、避難所(アサイラム)としての九龍城砦の守護者としての側面にむしろ焦点を当てていたように思う。
そしてその避難所という役割は、九龍城砦だけでなく、香港自身が担ってきたものだった。

だから、人気作ゆえの怖さはあるが、あえて言わせてもらおう。
この映画にもまた、香港の静かな抵抗の心がこめられているのではないか、と。

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河内集平(Jam=Salami)
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