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クアラルンプールを発つとき

クアラルンプール⑦

ムルデカ広場にて

クアラルンプールの心臓はといえば、ムルデカ広場だと誰もが答えるだろう。
川の西側地区、分岐点のすぐ隣にあるこの広場は実際、行政の中心でもあった。

マレーシアの独立宣言もこの広場で行われた。
王が「ムルデカ(独立)!」と雄叫びをあげたという。

広場の形は長方形である。
周囲には、スルタン・アブドゥル・サマド・ビル、ロイヤル・スランゴル・クラブ、旧チャータード銀行、セント・メアリー大聖堂といった、植民地時代の威厳ある建物が並ぶ。
その威厳はかつては英国と西洋文明の威光を見せつけようとするものであり、今では立派な観光名所である。

その中でも、玉ねぎ型の銅の屋根を乗せた時計台が印象的なスルタン・アブドゥル・サマド・ビルは広場の象徴のような存在だ。
これはもともと英国の植民地政府の庁舎として建てられたが、現在は通信メディア省と観光文化省が入っているらしい。

スルタン・アブドゥル・サマド・ビル

ムルデカ広場の真ん中は芝生になっているが、入ることができるわけではない。
昼間は日差しを避けるものもないのでかなり暑い。
それでも観光客は訪れていて、強い日差しの中で写真を撮っている。
だが、私が思うに、この広場が輝くのは、むしろ夜である。

背後はクアラルンプールの大都会

夜が映すもの

夜になると、広場は散歩をしたり、ベンチで過ごす人の場になる。
夜のクアラルンプールのオアシス、それがムルデカ広場だ。
人だけではない。
マレーシアではよく見かける猫もそこらじゅうでうろうろしている。

イスラームの開祖ムハンマドは猫を愛したと言う。
伝承によると、礼拝服の上で寝ていた猫を起こさないように、礼拝服の方を切って身につけたらしい。
その影響か、イスラーム圏では猫を大切にしているイメージがある。
いや、イメージどころか、シンガポールからマレーシア、ギリシアからトルコなど、イスラーム圏に入った途端、猫をたくさん見かけるようになるのは確かだ。

昼間はこてんと寝ている猫が夜のムルデカ広場では闊歩する。
時にたった一匹で、時にはお爺さんに餌付けされながら…。

スルタン・アブドゥル・サマド・ビルは、クアラルンプールの夜景を背に立つ。
メタリックな身体がダイヤモンドのように輝くツインタワー、妖しく光るKLタワー、天から落ちた稲妻のようにサイケに輝くムルデカ118。
クアラルンプールのランドマークがここに集結するのだ。

さて、いつ、どのようにして、この町を出ようか。
夜景を眺めながら、私は思案した。
一週間でマレーシアを北上する、でも大都市だから3日は取ろう、とクアラルンプールに入ってから、5日が過ぎた。

沈みかかった船

クアラルンプールが好きだから長居しているのであれば話は簡単だ。
だが、そういうわけでもない。
むしろ、ブキッビンタンからチャイナタウンへ、宿を転々しながら、この街に居続けたのは、「このままこの街を去れば、クアラルンプールについて何の手がかりも、手応えもないままになる」という危機感があったからだ。

沈没、という言葉がある。
バックパッカーがタイやマレーシア、インドなどで一つの町、一つの安宿に、ジリ貧の状態で長く居座り続けることを指す。
かつては「沈没してみたい」と思っていたが、人は沈没しようとして沈没するのではなく、いつの間にかしているのだなと思った。

いっそ沈没するか。
だが、旅の中間地点にも至らず、ぐずぐずしていることへの抵抗感もあった。

ホステルの哲学者たち

鬼仔巷のホステルで、三度目となる延泊をしようとフロントに向かった。
だが夜は結構な頻度でチェックインの客が来ていて、取り付く島がなさそうだ。
共用室のテーブルに座り、旅の記録をノートにつけていた。
いつもは歩き疲れて、日記のような習慣は長く続かないのだが、今回は、家計簿、町の地図、時折スケッチなどを交えて、珍しく日課となっていた。

鬼仔巷

「昨日も本を書いていたね」と急に話しかけられた。
顔を上げると、背の高い二人の男性がいた。
一人はジョンというスウェーデン人で、もう一人はベンというカナダ人だった。
前日に共用室にいた時も、二人は積極的に新入りに話しかけ、夜遅くまでソファに寝そべって喋っていた。
いわば、牢名主のような存在だろうか。

ベンはおちゃらけた性格で、もっていたクッキーをくれた。
私も大学時代カナダに行ったことがあるというと、「日本人はみんなカナダに来ているね」と笑う。
どうやら同じタイミングで日本人が泊まっていたらしい。私はその彼女とは会わずじまいに終わった。

ジョンは英語圏の人かと思うほど流暢に話す。
徐々に気づいたが、本当を言うと、旅先では英語圏の人ほど、手加減した英語で話してくれる。むしろマシンガントークは北欧か東欧の人の得意技のようだ。
私が大学で哲学を学んだことを明かすと、関心を持って色々と話してくれたのだが、ほとんどついていけなかった。
だが、彼が何らかの武道の師範をしていて、東洋思想に関心を持っていることはわかった。

「君はずっと旅を続けたいと思うか? 例えばワーケーションやノマドワーカーのように」とジョンが急に話を振ってくる。もう夜も遅く、回らない思考を無理やり回し、
「そうだね。それができたらどんなに良いか……今は仕事をやめて、お金が尽きてきているんだ」と答えた。
「お金か……そうだよな。このホステルの上はバーになってて、そこで働いている人もいるよ」とジョンはいう。なるほど、そういうあり方もあるのか。
「それと、一週間分先に払うとここは割引になるよ」とベンが畳み掛ける。

「ただね、俺は旅を続けたいとは思わないんだ」とジョンは言う。「東南アジアは好きだ。だけど長く旅をして、生活に戻る、というサイクルがいいんだ。何事にも重要なのはバランスだ」
バランス。さすが武術の師範らしい言葉である。
「現代の先進国の人は『悩む』という贅沢をしている、と読んだことがある」とジョンは続ける。「昔の人や、途上国の人はもっとシンプルだ。俺たちは先のこと、人からの評価、いろいろなことで悩んで塞ぎ込むけど、それは贅沢なことなんだ。大切なのはやっぱりバランスだ。知性に頼りすぎてもいけない、身体を忘れちゃいけないんだ」
「なんだか武術っぽいね」と私が言うと、
「そうさ。君は日本人だからきっとわかるだろう」とジョンは答えた。

それから、日本の食文化と寿命の関係の話や、かつてジョンが訪れたミャンマーの話、ベンのマレーシア料理講釈など話は移り変わった。
中国やアメリカからの食文化の影響が強いはずの沖縄が長寿県として知られている話をすると大層不思議がっていたのを覚えている。

逆に、ミャンマーで出会った無数の親切な人たちの話は私の心に残った。
「実は、コロナ禍になる前、ミャンマーに行こうとしていたんだ」と私は言った。
事実である。その年、就職活動をしていた私は、全て終わったらミャンマーとインドに行こうと計画を温めていた。
ところが、コロナ禍になり、ミャンマーでは軍事クーデタが起きた。
「もしまたタイミングがあれば、ミャンマーに行くといい。俺はあの国が好きだ」とジョンが言った。

「この次はどうするの?」と私はジョンに尋ねる。
「実は明日の朝、ベトナムのハノイに行くんだ」とジョンは答えた。
「君は?」とベンに尋ねると、
「実は、明日の延泊を断られたんだ。いっぱいなんだってさ」と答えた。

困ったな。私も明日は宿無しになってしまったようだ。
だが、これが潮時なのかもしれない。
あれも見ていないこれも見ていない、まだ糸口が掴めない、と言っていたら、先へは進めない。
必ずしも先に進む必要があるわけではないのだが、人生においてもこの旅においても、胸の奥で「進みたい」という声が聞こえる。

ジョンが言う通り、バランスが重要だ。
時には機会に乗って先に動くことも……。

「これからどうするの?」とベンが聞く。
「僕は……明日の列車でイポーに行くと思う」

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河内集平(Jam=Salami)
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