クアラルンプールの聖地(国立モスクと祈りの時間)
クアラルンプール⑤
マレーシアは、マレー系、中華系、インド系などの多様な民族が織りなす多民族多宗教国家であるとともに、イスラームを公式宗教とするイスラーム圏の一員でもある。
当然、首都クアラルンプールにもモスクがたくさん建っているが、その中でも印象的なのは、以前別の記事で紹介した伝統あるマスジッド・ジャメッと、比較的新しい国立モスク(マスジッド・ネガラ)である。
国立モスク
国立モスクは、クアラルンプール駅に程近い、丘の麓に立っている。
マレーシアでは、マラッカで見かける伝統的なマレー様式のモスクと、英国統治時代以降の玉ねぎ屋根のモスクの二つの様式をよく見かける。
だが、国立モスクはそのどちらでもない。
巨大なターコイズブルーの屋根は閉じかけた和傘のような形状で、18の折り目がある。
これはマレーシアの13の州とムスリムが守るべき五行を足した数らしい。
このモスクがマレーシアという国家の、イスラーム信仰を代表する存在だというメッセージが見てとれる。
このモダンな建築は1960年に着工され、1965年に完成している。
1957年がマレーシアの前身マラヤ連邦の独立だから、新国家のために作られたのだろう。
観光客は、入り口で自分の名前を登録する。
それから、ノースリーブや短パンなど手足が露出していたり、女性で髪を覆うものがない場合は、ローブのようなものを借りる。
ローブの色はモスクによって違うらしく、国立モスクは紫色である。
モスクの敷地は、マスジッド・ジャメッと比べてかなり広く、丘の麓にあるからか、風通しも良い。
靴を脱いで裸足で歩くためか、モスクの床は往々にして綺麗に掃除されている。
ヨーロッパの教会と比べ、日本の神社仏閣は掃除が行き届いていると感じていたが、ピカピカに磨かれたイスラーム圏のモスクと比べたら、まだまだ汚い方である。
メインの礼拝ホールは、傘の形のドームの真下にある。
巨大なカーペットで床は覆われ、直線の模様が平行して何本も描かれている。
祈る人はその直線の模様の上に横並びでずらりと立ち、同じ方向に向かって祈る。
そのはるか西にはイスラームの聖地、ムハンマドが啓示を受けたメッカがある。
この方向をキブラと呼ぶ。
他のモスクとは違い、時間外の礼拝者はあまり見受けられない。
市街地が微妙に遠いからかもしれない。
ちなみに「時間外」というのは、次のような事情によるものだ。
イスラームでは、毎日五回祈りの時間が決まっているが、必ずしも時間通りに礼拝所に行く必要はない。もし仕事等で行かれないなら、あとで祈りの時間を取ることができる。
そういう意味で、「時間外」なのだが、マレー半島を旅していると、トルコや日本よりも、時間外の礼拝をよく目にしたのである。
イスラーム問答1:謙虚さ
そういえば、祈りの作法や、イスラームのことなど、知りたいことがいくつかできた。
普段は、ガイドなど頼まずに、カーペットの上で静かに考え事をするのが好きなのだが、色々と質問してみることにした。
マレーシアでは、国立モスクやマスジッド・ジャメッなど観光地のモスクにはガイドが幾人かいて、質疑応答に応じてくれるのだ。
「質問したいことがあるんですが……」と、話しかけると、柴田理恵に似たガイドの人が応対してくれた。
「モスクの天井に、アラビア語が書かれていますよね。あれはクルアーン(コーラン)からの引用ですか? どういう意味なんでしょう?」
「ああ、あれはね、神(アッラー)より高いところに存在するものはない、という意味ですよ。クルアーンの一節です。
どんなに高い建物も、神の前では低く、ちっぽけなもの。
この文言は、このモスクを支えているのは神の偉大な力に他ならないことを表しているんですよ」
引用箇所も教えてくれたのだが、残念ながらその部分は忘れてしまった。
天まで届く建築を作ろうとして、罰を与えられたバベルの塔の逸話を思い出した。
あくまで、神に対して謙虚であるというムスリムたちの心がけが見え隠れして興味深い。
イスラーム問答3:金曜日
「このモスクは金曜日の集団礼拝のためのものですよね。マレーシアでは金曜日がやっぱり祝日なんですか? 土日のどちらかが平日なんです?」
「いいえ、マレーシアでは金曜日は平日ですよ。
中東の方はわからないけど、金曜日はお昼休憩が長いだけ。その間に集団礼拝が行われます。ちなみに集団礼拝は男性のためのもので、女性は基本的にはいつも通りよ。
それに、絶対に出なければいけないわけでもないの」
集団礼拝について、長らく勘違いをしていた。てっきり全員参加のミサのようなもので、さらに言えば、金曜日が「安息日」であると思っていたのだが、そうではないらしい。
「金曜日の集団礼拝というのは、祈りの時間をとれない人たちのためのもので、ユダヤ教やキリスト教の安息日とは違うんです」
イスラーム問答2:清めて、向かい合う時間
「ムスリムが祈る際にさまざまなポーズをとりますね。それぞれ意味はあるんですか?」
「祈る前に、まず手や足、口を清めます。
それから礼拝ホールに入り、一直線に並んでキブラの方向を向きます。
それから『これから礼拝を始める』と、集中する。
このとき、『何食べようか』『仕事で嫌なことがあった』『お金の心配がある』とか、世俗的なことを頭から追い払うのよ」
「つまり、体も心も『清め』るんですね。神と向かい合うために」
「その通りです。
それから、手を上げ、『神こそが最も偉大である(アッラーフ・アクバル)』と唱え、首を垂れる。そしてまた神を讃え、地面に膝と頭をつける。
ムスリムは神以外の誰にも頭を下げないの。自分も含め、人間は神の前ではちっぽけな存在であるということを心に留めておくことが大切なの」
「人によって動作の回数が違ったような気がするんですが……」
「そうね。でも最低限の回数は決まっていて、それはいつ祈るかによって違うのよ。
敬虔な人は回数を増やしてお祈りすることもあるの。
ちなみに礼拝の時間は1日に5回、夜明け、朝、昼、午後、夜にあるけれど、太陽の高さによって決まっているから、毎日少しずつ変わるのよ」
太陽の高さを観測するとは、さすが、中世に天文学と航海術を発達させた宗教である。
「最後にムスリムにとって重要な信仰告白をして、両肩に座る天使に挨拶をします。
両肩の天使は常日頃私たちの行動を見て記録しているの。これが最後の審判の時の証拠になるのよ」
信仰告白の際に唱えるアラビア語の文言があまりに長かったので、
「全部覚えているもんですか?」と聞いてみると、
「宗教学校(マドラサ)で覚えさせられるのよ。小さい頃は、ただ音だけを叩き込まれる。
それが高校生くらいになって、やっと意味を知るようになる。
時間をかけて学ぶことでわかることもあるのよ」
イスラーム問答3:神と対話する時間
「一連の祈りの動作を終えたら、手のひらを上に向けて、個人的な神への感謝やおねがいごとをするんです。この時はアラビア語ではなくて、自分の言葉でいいの」
イスラームの祈りといえば、独特の動作の印象が強いが、神に祈りや願いを届けようとするのはどの宗教も同じなのだ……当たり前と言えば当たり前だが、ちょっと新鮮だった。
だがもちろん、違いもある。
「でもこの時間はただ願いを届けるだけじゃなくて、神との対話の時間なの」ガイドさんは静かにそう言う。
日常の雑念を追い払い、身と心を清めて神と向かい合う時間。
そんな時間を1日に5回持っておく。
5回も祈りの時間があると言うと、側から見ていて「面倒臭そうだな」と思わなくもなかったが、1日の中に静謐な時間を用意しておくのは生きる上で良いことなのかもしれない。
学校生活、仕事、家庭生活、友人関係……我々は人間関係の中で生きている。
その忙しない活動の中で、休みなく、意識は外へ外へと向かい続ける。
休憩中でさえ、現代人はインターネットの中に飲まれに行ってしまう。
時には内側を覗き込み、リセットする時間が必要なのだ。
イスラームの生まれ故郷である砂漠地帯のオアシスのように、時の流れの中で、精神的な集中の時間を設けるという発想は、異教徒の私でも考えさせられるものがあった。
どこにでも、どこででも
国立モスクを後にして、隣の美術館を見て回った。
そこには、世界各地のイスラーム関連の美術品が勢揃いしていた。
中でも興味深かったのは、中国やマレーといった非中東圏のイスラーム美術だった。
例えば、中国では、書道や陶磁器といった中国伝統の美術品をベースに、アラビア語の文言などイスラームの文化が刻み込まれている。
一見すると漢字や絵画に見えて、その実はアラビア語だったりする掛け軸がいくつか展示されていた。
また、建築においても、マレーはマレーの家屋、中国では道教寺院の様式がそのままモスクに転用されていたとか、マレーでは祈りの時間を告げる「アザーン」を声ではなく太鼓で知らせていたという話などもあった。
近世以前にイスラームがほとんど伝播しなかったといえる日本では、イスラームは「異なる存在」「頑強な一神教」として意識している人もいる。
だが、他の地域では、さまざまな文化の混淆の中でその教えが広まってきた歴史があるのだ。
だがそれは「折衷」とか、「妥協」のようなものでは、あながちないようにも見える。
イスラームでは、この世界そのものが、神の「顕れ」だという話を聞いたことがあるが、一見すると中華美術の中にクルアーンの言葉がある、という状態は、どことなくその話に通づるところがあると感じる。
***
美術館を出てから、中央駅へ向かった。
郊外に大規模な二つのモスクがあるという。
一つはブルー、もう一つはピンクという対照的な色合いだそうだ。