「自分の真実を語る」 スケッチ2
手術を受けた家人の退院のお迎え。
ナースステーションわきの面会サロンで待機する。
朝10時の予定時刻が近づくにつれ、その日退院の患者たちがひとり、また一人と確認手続きをしていた。
家人が出てくる前に4人ほど。
お迎えがある方が2人、単身の方が2人。
歩行器を使う人、車いすの人。
「元気」というには程遠いけれど、皆さん、ナースステーションを背にしてゆっくり、ゆっくりとエレベーター口へと向かっていく。
ふと、
どの方も、決して、振り向かないことに気づいた。
あぁ、ここは戦場だったのだ。
病棟は命がむき出しになる最前線なのだ。
今日という日は、救われた命を抱えて、ここを去って行く日なのだ。
後ろ姿には、二度と戻ってこない、という決意のようなものが感じられた。
彼らの壮絶だったであろう闘病を想った。
そして今、このフロアだけでも何十人もの人が闘っているということも。
それはまるで「家人が退院する!」という私の浮かれた気持ちをたしなめられるようだった。
「退院、おめでとうございます。
どうか、ゆっくり、ゆっくり。ご快復くださいますように。」
心からそう思った。
ちょうど10時頃だったと思う。
大柄の年配の男性が退院手続きのためにナースステーションに立ち寄った。一昔前の固いタイプのスーツケース、短期留学用にもなりそうな特大サイズを引いていた。
「あぁ、入院が長かったんだなぁ」。
まだ病室から出てこない家人を待ちながら、一番近い椅子に座って、私はぼんやり彼を眺めていた。
病棟退院の確認が終わった。
すると、彼はナースステーションに正対し、背筋を伸ばし口上を述べ始めた。
病院の医療サービスに対するお礼。
入院中の看護サービスに対するお礼。
そして、その場にいなかったスタッフに対するお礼。
彼は、一つひとつ、ゆっくりと、からだの中から言葉を発していた。
よく練られた無駄のないやさしい言葉は、おそらく事前に準備されていたのだろう。
いや、準備も何も、汚れのない「まこと」を言葉にする必然が、おそらく彼にはあったのだと思う。
誰に、どう、思われたっていい。
自分のまことを語る必然。
まだ本調子とは言い難い彼が言葉を絞り出す様子に、私は胸がいっぱいになった。目頭が熱くなった。
と同時に、最後までこの場に同座させていただこう、見届け聞き届けようという覚悟のようなものを抱いた。
とつとつと語り始めた彼の姿に、はじめは照れていた窓口の看護師も立ち上がり、彼に正対した。しだいにまわりにいた他の看護師たちも手を止め、じわじわっと集まって来た。
皆、一列になって姿勢よく起立し、彼の一言ひと言を聞く。時に頷きながら。
彼の懸命な姿、そして口上を聞く7・8人の看護師たちの遠慮がちな誇らしさが、患者であれスタッフであれ、戦場で闘い生き抜く厳しさというものを物語っていた。
一瞬の沈黙があり、互いに礼を交わす。
そして、彼もまた、振り返らずにエレベーター口へと向かった。
その後ろ姿は、生き延びたのだという誇らしさと、ここには二度と戻らないという決別の空気を纏っていた。
看護師たちは、ふたたび持ち場に散っていった。
やがて家人の退院手続きを済ませる頃には、その日から戦を始める数人が、痛んだ命をやっとのことで運んできた。
あれは総合病院の月曜朝の、ほんの数分のできごとだった。
命の岸辺で、私は崇高な真実を目撃したのだと思っている。